<香椎仏研>                         2014年12月11日          

「信心の有無と人の評価」

(第97条)

一、同じく仰せられ候。「世間にて時宜しかるべきは善き人なりと雖も、信なくば心をおくべきなり。便にもならぬなり。仮令片目つぶれ腰をひき候うようなる者なりとも、信心あらん人をば頼もしく思うべきなり」と仰せられ候う。


 (語注)

・時宜・・・・丁度よい時期 (その時にかなっていること)

     「宜」= よろしい、ただしい、ほどよい 「よろしく~すべし」(~するのがよい)

・「世間にて時宜しかるべき」・・・世間のことについては、時と所に応じて適切なふるまいのできる人 

・心をおく・・・気をつける 用心する 遠慮する

<意訳>

 信心は無いけれども、世間のことについては、何でもその時と場合に応じてテキパキ

とぬかりなく対処できる人は、たとえ善人であったとしても、用心したほうがよい。(決

して心を許してはならない) いざという時どう変わるかあてにならないからである。

 その逆に、たとい片目が見えないとか腰が曲がって歩行が困難な人、つまりハンデイ

キャップがあって世間のことをテキパキと処理できないような人であっても、信心のあ

る人は少しも心配する必要はない。心から信頼できる便りになる人である。


 この条は戦乱の世を生き抜かれた蓮如上人の豊富なご経験とご苦労から生まれたも

のである。

1、 信心のない人

ここでは信心のない人のことを「世間にて時宜しかるべき人」といっている。信心に対する反対の言葉は「世間心」であろう。信心のない人はすべて「時宜しかるべき人」(世間の知恵に通じていて、有能で世渡りの上手な人)とは限らないが、この言葉は世間心の特徴をよく表わしている。勿論信心の人でも、世間のことによく通じていて、「時宜しかるべき人」はある。「時宜しかるべき人」はすべて無信の人といえば言い過ぎである。一般に世間の知恵は、人の心をよく知っているということと、時(チャンス)をよく知っていることだと言われる。

「人の心をよく知っている」とは、世間の人はどんなことを求めているか、どんなことをすれば喜ぶかをよく知っているということである。つまり世間心に通じていて、それを巧みに利用するすべ(術)を心得ていることである。

世間心の特徴をいくつか挙げてみると、

➀ 利害・損得に敏感な心 ② 優劣・勝ち負けに敏感な心 ③ 有名・一流への憧れ

④ 外見(みた目)のよさの重視  

等であろう。煩悩でいえば前回述べたような「我愛」と「我慢」である。

 「時をよく知っている」とは、世の中の動きに敏感で、時流に乗り遅れない知恵である。「機を見るに敏」とか「風見鶏」という言葉があるように、状況の変化をいち早く察して、それにすばやく適応していく身代わりのはやさである。

 どんなことでも、時を失することなくテキパキと仕事を処理できる人は、世間では有能な人として重宝がられ信頼される。そういう意味では善い人であるが、しかしその人の言動の根っ子に何があるかが問題である。もしそれが自己保身と自己顕示から出ているのであれば、決して心を許すことは出来ない。自分にとってマイナスになると分かれば、たちまち変わる可能性があるからである。

 「世間にて時宜しかるべき人」は自分に自信があり、たとえ困難な問題が出てきてもそれを巧みにかわす方法を身につけているために行き詰まらない。私はこれでよいのかと真剣に悩み自分を問うことが出来ない。そのような人のことを『維摩経』等では「世智弁聰」という。世智、世間の知恵によく通じていて、処世術にたけた人のことである。こういう人は仏法を聞くことがきわめて難しいために「八難身」の一つに入れられている。そういう意味では悩み多き人は仏法に近いということになる。

※ 八難身・・・➀地獄 ②餓鬼 ③畜生 ④長寿天 ⑤辺地 ⑥盲聾瘖ア 

⑦世智弁聰 ⑧仏前仏後

信心のない人は世間のことばかり問題にして自分自身を問題にすることが出来ない。自分は正しい、間違いないと思い込んでいて、自分に対する批判は決して受け付けない。これが致命的な欠陥である。自分が分からないということは、酒を飲んで酔っ払っている人が自分は酔っ払っていないと思っているようなもので、いつどこで、何をするか何が出てくるか分からない。危険極まりないということになる。

また自分を離れてものを見ることも考えることも出来ないために、他人の問題を本当に理解し、平等の立場に立つことが出来ない。自分を中心にした愛憎善悪の心でしか他人にかかわることが出来ない。

2、信心のある人

「山には木、池には水、火鉢には火、人には信」(住岡夜晃師) 

(1) 信心とは

漢和辞典によると、「信」という漢字の第一の意味は「まこと」である。「まこと」とは、言い換えれば「真実」とか「誠実」である。その反対は、時、所、相手によって態度が変わったり、裏と表があるような心である。親鸞聖人は『御本典』の信巻で、「信」とは「真実誠満の心」であると述べておられる。(12-67)真実誠によって満たされた心である。

(ア)、まことの心

「信心といえる二字をば〝まことの心〟と訓めるなり」

(蓮如「御文章」一帖目第15通・29-13)

 「この信心をまことの心と読む上は、凡夫の迷心にあらず。全く仏心なり」

                               (覚如「最要鈔」)

「まことの心」とは人間の心ではない。如来の心である。それを第18願では「至心」という。(「至心・信楽・欲生我国」1-16) 「至」という文字は矢が遠くから飛んできて的に当たるさまを表わしており、そこから「いたる」「とどく」「きわまる」(これ以上ないところまで達する)という意味が出てくる。

 「如来は即ち是れ真実なり」(12-70)とあるように、如来と真実とは同義語である。

聖人は「至心」とは「如来の御誓の真実」と言われる。(17―1「尊号真像銘文」)

人間は自我の煩悩のためにこのような真実を持つことが出来ない。真実が無いということは、自分の現実をありのままに見ることも、ありのままに生きることも出来ないということである。本当には無いものを有ると思い、本当に有るものは無いと思い込んで、そのために迷いと苦しみがついて離れない。

したがって如来の慈悲は、そのような衆生に如来=真実を恵むことである。「至心」を与えることである。第18願の如来の三心が「至心」から始まるのはそのためである。「至心」こそ如来・真実のすべてであり、衆生がその「至心」を受け取った心が信楽(信心)である。如来の「至心」は、南無阿弥陀仏の名号となり、名号を通して衆生に与えられる。「聞其名号 信心歓喜」と、名号の意(こころ)を聞き開くところに信心が生まれる。

イ、 無疑心(疑う心のないこと)

「信心とは如来の御誓を聞きて疑う心のなきなり」(19-1 ・「一多証文」)

疑う心が無いとは、疑わないようにすることではない。疑おうにも疑うことが全く成り立たないまでに事柄が明らかになったのである。では何が明らかになったのかと言えばわが身の本当のすがたである。聞法によって如来の智慧に照らし出されて、自分ではどうすることも出来ないような深い心の闇を抱えたわが身であると、今まで全く見えなかった私の赤裸々な正体が、今初めて明らかになったのである。これはもう誰が何と言おうと疑うことは出来ない。

それを『経典』では「煩悩具足の凡夫」といい、中国の善導大師は「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」「常没・常流転して出離の縁有ること無し」といった。要するに自分のどこにも助かる手がかりなどない、とても助からないわが身であると自分の正体に目覚めたのである。これを「機の深信」という。(12-59)

けれども、教えをよく聞いてみると、如来がこのような衆生の正体を徹底的に明らかにしたということは、如来はこのような衆生をすでに受け取り、このような衆生を助けるために願いを起こしていたのである。このような衆生こそ如来を如来たらしめるもの、如来が如来になるためになくてはならないものだったのである。如来・真実の躍動する舞台だったのである。愚かで罪の深いわが身に目覚めたそこが、如来・真実と出遇う唯一の場所だったのである。

「煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば すなわち穢身すてはてて 法性常楽証せしむ」(11-29)

 この和讃の心は、煩悩具足のわが身と信知すれば、このわが身はすでに如来の本願のはたらきの中に摂め取られ、本願に乗托させられていたと信知するという意味である。

煩悩具足と信知することは本願力に乗托するための条件ではない。このような本願の法に対する信知を「法の深信」という。

 したがって信心(「機の深信」)とは、そのような如来の本願に任せはてた心である。中々任せることの出来ない自力の心が如来によって木端微塵に打ち砕かれた心である。

この点から言えば、信心とは他力(本願)を拒む自力の心の無功を徹底的に知らされて、本願のはたらく舞台を作るような心である。

(2) 信心の人の特色

信心の人は常に如来を相手に生きている人である。私たちは世間や人を相手にするかぎり、

自分を飾ったり虚勢を張ったりして、本来の自分を生きることが出来ない。如来こそ私の本当の相手であったとなると、他人や世間の評価や態度に一喜一憂することはいらない。私が私に成りきることが出来る。

 それは決して目の前の人を無視することではない。どんな人もその背後に如来まします、如来を相手にすることが、本当に人を相手にすることになるのである。

如来を相手に生きるとは、自分にとらわれる狭い心を常に如来の智慧によって照らし破られて、開かれた明るい広い世界に心が開放されることである。したがって信心の人の明るさは地についたものであって、なにものによっても奪われない。

それは聞法の利益であるが、それを日常的具体的に実現するものが念仏である。自分中心の我執を無くすることは出来ないが、念仏申す身になるとそれは念仏の内容になる。念仏の本体は仏の智慧であるから、我執の煩悩を転じて南無阿弥陀仏の中に摂めとることが出来るのである。信心の人は何よりも念仏の人である。したがって如来を相手に生きるとは、具体的には念仏申して生きることである。

かくて信心の人は、生活の全体が仏法(念仏)になった人である。したがってその人の意識を超えて、尊い仏の香が現われている人である。

「信心治定の人は誰によらず先ず見ればすなわち尊くなり候」

                                            (「蓮如上人御一代記聞書」第210条