<香椎仏研>                         2014年10月17日          

「自信・教人信の道理」

(第93条)

一、「信も無くて人に〝信をとられよ、信をとられよ〟と申すは、我は物を持たずして人に物をとらすべきというの心なり、人承引あるべからず」と、前住上人申さると順誓に仰せられ候いき。「自信教人信と候う時は、まずわが信心決定して、人にも教えて仏恩になる」とのことに候。「自身の安心決定して教うるはすなわち大悲伝普化の道理なる」由同じく仰せられ候。


(注) 冒頭の「信も無くて人に・・・・人承引あるべからず」の言葉はだれが言ったのかと

いえば、「前住上人(実如)申さる」とあるから、実如上人である。しかしこの『御一代記聞

書』では、すべて蓮如上人と実如上人の言葉については、「仰せられ候」であり、「申す」と

いう言い方はない。弟子等の場合は「申す」となっている。この点が一寸引っかかるが、こ

こは蓮如上人が御子息の実如上人の言葉を「申す」と言われたのであり、冒頭の言葉を前住

上人が申したと蓮如上人が順誓に仰ったという意味である。後に続く言葉は皆蓮如上人の

言葉であるから、ここも蓮如上人が実如上人の言葉を順誓に伝えられたと取るのが妥当であ

ろう。

(語注)

 「自信教人信」・・・『往生礼讃』に出ている言葉。次の四句の最初の一句である。

「自信教人信、難中転更難、大悲伝普化、真成報仏恩」

(自ら信じ人を教えて信ぜしむること、難きが中に転(うたた)更(また)難し、大悲を伝えて普く化するは真に仏恩を報ずるに成る)

<意訳>

 「自分にはまだ信心もないのに、知人に〝信を取れ、信を取れ〟と盛んに信を勧める人が

ある。だがそれは、自分は何も物を持たないで人に物を与えようとするようなもので、誰も

承知するはずが無い」と、前住上人が申していたと、蓮如上人が順誓に仰った。(以下略す)


1、仏法が伝わる秘密 

これは私にも経験があるが、仏法を聞き始めて間もない頃、聞いた教えにいたく感動する

とすぐにそれを身内の者や友人などに話したくなり、また仏法を勧めたくなるということが

ある。あれは一体何だろうか?自分はこういう優れた教えを聞いているということを人に知

ってもらって、人に感心してもらいたい、話そのものよりも、そういう話を聞いて喜んでい

る自分に感心してもらいたいと、自分をアピールしているのかも知れない。これも聞いた仏

法を取り込んで自分を飾る名利心の一種かも知れない。こういう話によって人が仏法に心惹

かれ、聞法するようになることはまずない。

 仏法を人に勧めるときに一番大切なことは、仏法を勧める自分自身がどれだけ仏法をいた

だいているか、どれだけ仏法が身についているか、仏法に生かされているかということであ

る。わが内に燃えるものがあるかどうかということである。仏法がまだよく身についていな

い者がどんなに勧めても、中々それを聞く人の心を動かすことは出来ない。それは信心の有

無の問題である。それをここでは、〝差し上げる物も無いくせに人に物を与えよう与えよう

としているようなものだ〟と、巧みな喩えで言っている。

これが人に仏法を勧めるための鉄則である。いくら上手に仏法の言葉を使い、分かりやす

い仏法の話をしても、それが相手の人に響くかどうかは、仏法を語る人からにじみ出ているものがあるかないかによって左右される。徹底した仏法者には、その生活全体、身柄全体からあふれ出ているような何かがある。それは無意識の中にこぼれ出ている尊い香りのようなものかも知れない。これほどごまかしの効かないものはないのではあるまいか。

 また、たとえ熱心に勧めて沢山の人が会座に足を運んでくれたとしても、自分が未熟な間

は、そういう人が続いて聞法することは中々ないということがある。(故細川先生の述懐)


2、自信とは何か

自信、みずから信ずるとは信心のことであるが、私の心でこれはまちがいないと仏法を信ずることではない。そういう私の心のはたらきではない。信心は単なる心の問題ではなく、身の問題、いのちの問題である。他力の信心とは、仏法がいわば私のいのち、いのち以上のいのちとなって、いつでもどこでも、どんな私も仏法によって生かされていると感ずることである。縁によってどんな私が出てこようと、どんな私になろうと、仏法からはみ出したような私はどこにもないと、仏法と私が一つになることである。これを摂取不捨という。これを又、「一心」という。

「一心」という言葉は『浄土論』の冒頭に「世尊我一心・・・」とあるあの一心である。又『阿弥陀経』にも、「執持名号・・・一心不乱」と出ている。『阿弥陀経』の表の意味は、心を集中して脇目もふらず一心に念仏申すという自力の行を表わしている。したがって「一心不乱」の一心は副詞である。しかし先日加来先生からお聞きしたように、経文の奥に隠れている「隠の義」では、「執持名号」も「一心」も行に関係する言葉ではなく、信心のことであり、親鸞聖人は『御本典』の化土巻で、「一心」とは「無二真実」のことだと述べておられる。これは『浄土論』の一心と全く同じ他力の信である。

「無二真実」とは、如来の真実(第18願では「至心」)が名号となって、衆生の上に到り届いて「信楽」となった、あの「信楽」のことである。「信楽」について聖人は『尊号真像銘文』(17-1)の中で、「如来の本願真実にましますを二心(ふたごころ)なく深く信じて疑わざれば信楽と申すなり」と述べておられるから、「信楽」とは無二心、つまり「一心」である。(「信楽は即ち是れ一心なり」12-67)

衆生が如来の真実を受け取るということは、如来の真実によってわが身を徹底的に照らされ破られることである。虚仮不実のわが身に目覚めるということである。その点からいえば、「信楽」(一心)の内容は「機の深信」である。わが身をたのむ自力の心が打ち砕かれて、「出離の縁有ること無し」と、助かる手がかりの全くない私に目覚めたのである。

ほんのわずかでもわが身をたのむ心が残っているならば、如来は自在にはたらくことが出来ない。自力の心が如来の徳を妨げるからである。しかしそれが仏智によって無きも同然になったならば、如来は信心の人を通して自在にそのはたらきを展開出来る。如来の徳が表にあらわれる。このように他力の信の成立が如来のはたらく場所を用意するのである。

他力の信とは、如来の本願が衆生の上に成就して生まれた心である。本願成就文にあるように、「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜」であるから、本願の結晶である「名号」(南無阿弥陀仏)が信心の中身である。つまり信心は衆生の上に成立した目覚めに違いないけれども、その本質は如来のはたらきである。如来がその人の身口意となって現われているのである。   

したがって、この「聞書」の第236条(30-35)には、「ただ何知らねども信心定得の人は仏より言わせらるる間、人が信を取る」という言葉が出ている。どういうことかというと、仏法が本当に身に着いた信心の人の言葉は、その人が話しているままが、仏(如来)の言葉というか、如来がその人の口を借りて現われているとしか思えないようなものがあるというわけである。

そうすると、自信(信心)の中に如来が生きており、その如来が信心の人の身口意の三業を借りて人にはたらきかけるということである。他力の信を得た人は、その人の人間的(人格的)な力ではなく、信の中にあるその人を超えた如来(仏法)の力によって他人に影響を与えることが出来るのである。

2、自信と教人信

 「教人信」とは、人に仏法を教えて信ぜしむ、つまり他の人々を仏道に導くことである。広く言えば他の人々への働きかけである。「教人信」というと、人に働きかけて信心の人を作り出すという意味にとられやすい。しかしこれは『歎異抄』にあるように、信心は人の力によって出来るものではない。信心は如来よりたまわるものであり、「弥陀の御もよおしにあづかりて」得るものであるから、信心の人といえども他人に信を与えることは出来ない。ただ相手の人が信を得る縁となることが出来るだけである。

 原文で「教える」という言葉が二回使われているのが一寸気になる。仏法は、まして信心は人に教えるものではない。人に教えることは出来ない。信心の人は、みずから頂いた仏法をただ讃嘆することが出来るだけである。

 この「自信」と「教人信」との関係は、「自信」と「教人信」とが二つあるのではない。「自信」を「自利」、「教人信」を「利他」とすれば、「自利」を得た人がその次に「利他」を行ずるといった順番があるのではない。先ほどいうように、「自信」の信の中に他の人々を仏道に導く力があるのであって、私が意識して他の人々を導こうと働きかけるのではない。私たちに出来ることは専ら「自信」を成就することである。徹底的に如来の智慧をいただくことである。「教人信」の働きは、その「自信」のあゆみの中におのずから具わっているのである。

このことをよく示した教えが「願作仏心即度衆生心」という言葉である。この言葉は曇鸞大師の『浄土論註』に、菩提心を説明する言葉として出ている。それを親鸞聖人は大切にいただかれた。(12-79)

「願作仏心」とは、簡単には仏に成りたいという願いのこと、もっと丁寧に言えば、阿弥陀の本願をたのんで浄土に往生して仏に成りたいという心のことである。したがって「願往生心」(願生心)と別のものではない。これは自利成就の願である。

「度衆生心」は、苦悩の衆生を救済して浄土に往生させたいという利他の願である。この「願作仏心」と「度衆生心」とがなぜ「即」で結ばれるのだろうか?これが大事である。

 それを解くカギは、衆生の「願作仏心」はどこから生まれたかという問題を考えれば明らかである。これは衆生がみずから起こした願心ではない。如来の本願が衆生の上に成就して初めて生まれた心である。つまり本願成就の信心である。「和讃」にも、「如来の廻向に帰入して 願作仏心をうる人は・・・」とある。(11-34)「願作仏心」は如来の廻向なのである。

 如来の本願のいのちは、何といっても一切の衆生を済度せずにはおかないという「度衆生心」である。その如来の「度衆生心」が衆生の上に成就して「願作仏心」となったのであるから、その衆生の「願作仏心」の中身というか、「願作仏心」を貫いているものは如来の「度衆生心」以外にはない。つまり、衆生の「願作仏心」を生みだしたものは如来の「度衆生心」である。したがって衆生の「願作仏心」の中に如来の「度衆生心」が丸ごと具わっているのである。衆生の「願作仏心」の外に「度衆生心」を求める必要は全くないのである。

 したがって先に述べた「自信」と「教人信」についても、これと同様に「自信即教人信」ということが出来るのである。

 「教人信」、つまり人々に働きかけて彼等を仏道に導くことは人間の力では出来ない。それが出来るのは如来の智慧、つまり仏の本願の力だけである。ただ「自信」を得た信心の人は、その本願をいのちとし、本願に生かされている人であるから、その信心の中にのみ、「教人信」を成り立たせる力があるのである。(了)