<香椎仏研>                          2014年4月11日          

「知れるところを問え」

第81条    

一、「日ごろ知れる所を善知識に逢いて問えば徳分あるなり。知れる所を問えば徳分あると言えるが殊勝のことばなり。」と蓮如上人仰せられ候。「知らざる處を問わばいかほど殊勝なる事あるべき」と仰せられ候。


〈語意〉

 ・徳分・・・「得分」と同じ。得る所、わが身にいただくものがあるということ。

 ・殊勝・・・特にすぐれていること。

〈解説〉

 この一条は存覚上人の『浄土見聞集』の次の文にもとづいている。「善知識にあいたてまつりてわが知れるところをたずぬべし。日ごろ知るところなりといえども、聞けばまた得分のあるなり」 蓮如上人はこの存覚上人の言葉に深く共鳴され、これは実に優れた教えであると讃嘆されたのである。

 この条の中心は、この「知れるところを問う」、つまりすでに聞いて分かっていると思っていることをさらに善知識に尋ねることの意義を強調しているところである。

後のほうの「知らざるところを問わばいかほど殊勝なる事あるべき」は、言うまでもないことであり、いわばつけたしである。しかし世間の常識は、知っていることを尋ねるより、知らないことを尋ねることの方がずっと価値があると考える。こういうところに世間と仏法の違いがよく表れている。その違いはなぜ、どこからくるのであろうか。


1、求道と問い

仏教は人間の根源的な問いから生まれた宗教である。釈迦の出家の動機が「生・老・病・死」の四苦であったように、人間の問いは、どうしてこのような現実があるのか、あるいは起こったのか、どうして私がこのような苦しみを受けるのか、人間の理性によってはとても受け取れない、納得できない矛盾に満ちた現実から生まれる。ありのままの人生の現実が受け取れない限り人間の苦悩は尽きない。したがって人間の問いは人生の苦悩の現実とともにある。苦悩こそ真実の問いを生み出す母体である。

人生の苦悩はどこから生まれるか。その根源を尋ねていくならば、私たちはすでに生まれて生きている“いのち”の問題につき当たらざるを得ない。たとえば病気の苦しみは治療がうまくいくとなくなるが、再び病気する身であることはちっとも変わらない。老・病・死する身を貫いているのが有限ないのちである。私たちは、自分の思い通りにならない厳しい現実が続くと、“こんなことなら何のために生まれたのか分からない、生まれた甲斐がない、生まれないほうがよかった”と思う時があるが、それが苦悩の根源がいのちの問題であることをよく現わしている。つまりすでに人間として、このような私として生まれておりながら、生まれて生きるいのちの深い意味が分からないのである。

このような、いのちの本当の意味が分からないことこそ人間の苦悩の根本であり、「生・老・病・死」の四苦の中の「生苦」に他ならない。この「生苦」あるがゆえに「老・病・死」が苦になるのである。したがってもしこの「生苦」が本当に解決したら、「老・病・死」その他の一切の人生の苦悩は超えてゆくことが出来る。この「生苦」の解決を仏教では「往生を得る」(得生)といい、「後生の問題の解決」というのである。

私は一体何のために生まれて生きているのか、この根源の問いに答えるために宗教がある。この問いは宗教(仏教)によってしか答えられない問いである。世間で問題にされることは、この苦悩を解決するにはどうしたらよいかという方法の問題である。それは病気でいえば対症療法であって、根本的な解決(治療)にはならない。

この問いは頭で聞いて分かるような浅い問いではない。世間の問いの多くは知識に属するものであるから、答えを聞いてそれがしっかり分かれば一応解決する。一度分かれば何度も聞く必要はないような問いは浅いものである。それに対して仏法の問いは、人間の思考を超えた如来の智慧に属するものであり、人間の根源的な迷妄に目覚めることなくしては解決しない問いである。したがってそれは限りなく深いものである。言ってみればすでに与えられているいのちそのものの真実の意義に目覚めることであるから、それは決して容易なことではない。人間の心の中には、真実にそむくもの、真実に出あうことを拒むものがしっかり根を張っているからである。


2、知れる所を問う

蓮如上人は「仏法の義をばよくよく人に問え」(30-23『聞書』第166条)と言われ、「内心にさぞとたとい領解すというとも、重ねて人に、その趣きをよくよく相尋ねて信心の方をば治定すべし」(29-53『御文章』四帖目第七通)と言われた。

上人はなぜそのように繰り返し同じことを仰ったのであろうか? それに対する上人の答えは、『御文章』の続きにある「そのまま我が心に任せば必ず必ず誤りなるべし」という言葉である。つまり折角仏法を聞いても、それを自分勝手に解釈して受け取り、しかもそれを正しいと思い込むということがあるからである。自我を持ったわれらは、何を見ても何を聞いても、それをありのままに見たり聞いたりすることが出来ない。自分にとって都合のよいことと悪いこととを全く平等に見たり聞いたりすることは出来ない。都合のよいことは誇張し拡大して受け取り、都合の悪いことは縮小したり、ゆがめて受け取っている。聞法も自分の都合に合わせて、気に入った教えはうなづいて聞いているが、自分にとって都合の悪い、気に入らない教えは聞いたフリをして聞いていないということがある。聞法によってかえって頑なな自分の世界を作っているようなものである。

このような過ちを正すためには、先生や先輩の同行に自分の領解を聞いてもらって気づくことしかない。上人が度々讃嘆・談合を勧められるのはそのためである。その点、法話の後に座談の無い会座には大きな欠陥があると言わなければならない。折角ありがたい話があったとしても、聞き手は聞きっぱなしになるので、講師の真意とは違った自分勝手な領解をしてそれを握って離さないということになる。大事な点を誤解したままで、それを誤解とも思わないで持ち続けることほど残念なことはない。これは聞法の悲劇であり喜劇である。

なぜ知れるところを聞くことがそんなに大事なのか、私はもう一つ大事な理由があると思う。どういうことかというと、私たちは何年か聞法を続けていると、あゝこれは一度聞いたことがあるとか、これはよく知っているとか思うことがよくある。これは仏法を知性の対象として分別心で聞いている証拠である。仏法を人間の分別心の中に取り込んでいくならば、教えを聞けば聞くほど頭が高くなり、頭を下げる世界を見失ってしまう。「邪見憍慢悪衆生」とはこのことである。

仏法は人間の分別心を照らし破るものである筈なのに、この教えはもう分かったとか知っていると思うところに腰を下ろすならば、私の自我の迷妄が破られることはあり得ない。しかしもう分かっていると思うことを人に聞くことは中々出来ない。正しいと思っている自分の領解の間違いや不十分さを知らされたくないという思いがあるからであろう。これは長年の聞法者が陥りやすい大きな課題である。私はこの思いと戦うことが進展のカギではないかと思っている。

特に長年聞法していると、本願とか信心とか念仏、あるいは往生といった基本的な言葉について自分なりの領解を持つようになるものである。そうするとその自分の領解にとらわれて、他の人の領解を頭を下げて聞くことが出来なくなる。無意識の中にも自分の領解が一番正しいと思っているからである。

仏法を聴聞していく上で一番してはならないことは、底の無い法に底を入れることである。教えを聞いて自分の領解にとどまり、もう分かったと思うことは、底なき法に底を入れるに等しいことである。分かったと思うことでも、それを先生に聞くと必ず私の予想を超えたもっと深い答えが返ってくるものである。この「聞書」の第151条に、「(これを)鑽れば弥堅く、(これを)仰げば弥高し」という『論語』の言葉が出ているが、自分がよく知っていることでも先生に尋ねてみると、自分の考えや領解がいかに狭くて浅いかということを痛切に知らされるのである。

「知れるところを問う」ことがなぜそんなに大切かと言えば、仏法の智慧の底深さを具体的に知ることが出来るからである。言い換えれば私の仏法の領解がいかに狭くて浅いかということを痛切に知ることが出来るからである。