<香椎仏研>                           2013年12月13日          

「人生の勝利者」

第72条    

一、 蓮如上人仰せられ候「堺の日向屋は30万貫を持ちたれども死にたるが

仏にはなり候うまじ。大和の了妙は帷子(かたびら)一つをも着かね候えども此度仏になるべきよ」と仰せられ候う由に候。

〈語意〉

・ 日向屋・・・室町時代、明との貿易によって大変栄えた堺の豪商 大富豪である

        (注)30貫とは、約500万両(千両箱のして5000個)である。

・ 了妙・・・・大和国高市郡八木(現在の奈良県橿原市八木町)の出身、金台寺の開基

        尼僧

・ 帷子(かたびら)・・・・裏のついていない着物 ひとえもの(麻糸で織った夏の着物)

         帷子(かたびら)一つ着ることが出来ないという表現で恵まれない生活を象徴している。

・ 仏になる・・・仏=ブツダ( 真理を悟ったもの 覚者 ) 

          一切の煩悩を断じつくして、この上ない智慧と慈悲を成就した者

    浄土真宗の教えでは、現生に聴聞して信心を得たものは浄土に往生する身にはな

るけれども、煩悩は無くならないので、成仏は肉体の命が終わった時であると説く。

※ 関連の条

 第77条「・・・悪凡夫の弥陀をたのむ一念にて仏になる・・・」

 第122条「弥陀をたのむ人は仏になる」

  その他、第188条、第192条、第284条


堺の日向屋と大和の了妙の最大の違いは、信心の有無にある。どちらも蓮如上人を尊敬し本願寺の門徒になっていたようであるが、堺の日向屋は商売が忙しくて聞法などほとんど出来なかったことであろう。したがってとても信心があるとは思えなかったので死んでも仏にはなれないだろうと言われた。彼は生前に莫大な財を成し、本願寺に多額の寄付をしたかもしれないが、信心が無いとどうすることも出来ない。お金で信心を買うことは出来ない。それに対して大和の了妙は家産を失って貧乏のどん底にあったが、仏法を求める心が厚く蓮如上人の教えをよく聞き、信心念仏の人であった。だからこのたびは必ず仏になるに違いないと言われたのである。おそらくほとんど同じ頃、蓮如上人のもとに、日向屋と了妙の死去の知らせが入ったのであろう。上人の率直な感想である。

了妙については次のようなエピソードがある。あるとき蓮如上人が了妙の住まいの近くを通りかかられて、了妙に対して最近どうしているかと聞かれた。そこで了妙は「ハイ麻糸を織る内職をしながらそのかたわらに念仏申しております」と答えたところ、上人は、「了妙よ、それはちがうぞ。念仏申しながら内職をするのが仏法者だ」と諭されたということである。上人は了妙のことを心にかけておられたのであろう。

1、 出世の本懐

出世の本懐とは、出世つまりこの世(人間世界)に生まれたのは何のためか、何を成し遂げるためかという、人間に生まれた者の本当の願いのことである。たとえば男子の本懐と言えば、男子に生まれたものの根本の願い、本望ということである。

仏教ではたとえば釈尊の出世の本懐がよく問題にされる。たとえば親鸞聖人の「正信偈」には、「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」とある。どういうことかというと、釈尊がこの世に出られた理由は、ひとえに阿弥陀仏の本願の、海のように大きくて深い徳を讃嘆するためであったというのである。これは釈尊の出世の本懐を表した言葉である。

また『阿弥陀経』について聖人は「一念多念証文」の中で、「この『経』は「無問自説経」

と申す。この『経』を説きたまいしに如来に問いたてまつる人もなし、これ即ち釈尊出世の本懐をあらわさんと思召す。」と言われる。この釈尊の出世本懐とは、この『阿弥陀経』を説くことであったが、『阿弥陀経』を説くとは、釈尊自ら阿弥陀なる真理と出遇い、阿弥陀に救われて阿弥陀を讃嘆することである。このことを除いて釈尊の出世の本懐はない。釈尊といえども阿弥陀と出遇い、阿弥陀を生きるということが無かったならば、人間に生まれた甲斐がないということである。

 これは釈尊一人にとどまらず、すべての人間に当てはまることである。私たちは何のために人間としてこの世に生まれたのか、それはこの世において成功し(勝ち組に入り)幸せな生活をするためではない。日向屋のような大金持ちになることでも、人もうらやむ出世を遂げて有名人になることでもない。ただ仏法を聞いて阿弥陀なる根源の真理、法と出遇うことである。それを本願を信じ念仏申す身になることだという。

 大和の了妙は大変貧しかったけれども、蓮如上人の教えをよく聞いて本願と出遇い、念仏申す身になった。これが出世の本懐の実現である。これを夜晃先生は「人生の勝利者」であるといわれる。この勝利とは、私たちの考える勝ち負けにとらわれた勝利ではない。先生の言葉を紹介すると次の通りである。

「勝て!断じて勝て!本質的に勝て! 勝利者でなくて真の人生を生きたといえるか。

順境にも勝て、逆境にも勝て、・・・運命に勝て、汝自身に勝て・・・

勝って勝って勝ち抜くものの力こそ願力であり、この希有最勝人の名こそ南無阿弥陀仏である。しかりしこうして真に勝つとは何ぞや。これ汝に与えられた課題である。」

 又別のところには、「永遠をおもう時 ついに生の勝利を感ずる」とあり、この勝利とは如来と出遇って「出世の本懐」を全うすることである。せっかく人間に生まれたのに、それは何のためか、何を成し遂げるためなのか、それがはっきりしないままで生きるならば、たとえ100年生きても生きたことにならないのではないだろうか。どんなに健康で長生きしたとしても、その中身を問われるとただむなしさしか残っていないとすれば、それは人生の敗北者といわざるを得ないのである。


2、死をもって完成する人生

40代で癌で亡くなった鈴木章子さんの残した詩に次のような痛烈なものがある。


 伊藤栄樹様 「人間死んだらゴミになる」 残された子に、残された妻にゴミをおがめというのですか。あなたにとりまして亡くなられたお父上お母上もゴミだったのですか。

 人間死ねば仏になる、この一点が人間成就の最後のピースでしたのに。自分がただ粗大ゴミとして逝ったのですね。未完のままに。(「癌告知のあとで」)


存命中に仏法を学び、仏法(如来)と出遇いうことが出来た人にとって、その肉体の死は仏に成るという意味を持つ。仏といってもお釈迦様のような姿・形をもった存在になるということではない。色も形もない南無阿弥陀仏という真理と一つになるのである。このことについて私には忘れられない思い出がある。1996年1月、先生が亡くなられた直後の本部の例会の時のことである。たまたまそのころ本部に駐在していた私が先生の代講をしていたのであるが、講義の前に講師部屋に入ってこられた安佐支部の頓所さんという方が(年配の女性)、「私は先生のご逝去の報を聞いてすぐに、アッ、先生は南無阿弥陀仏になられたのだと思いました」といわれた。この方はもう亡くなられたが、この言葉は忘れられない。

仏に成るとは、南無阿弥陀仏になることである。南無阿弥陀仏になるとは、有縁の人の念仏の中に生きているということである。念仏となって残された人々に呼びかけ続けることである。

又仏に成るとは、その人にとっては仏道の成就であり、人生の成就であり、人間の成就である。仏法者は命の終わったところが、仏道の成就したところである。人生の成就とは、生きることの意味が完結したという意味である。人間成就とは、全く欠点ひとつ持たない完成された理想的な人間になったということではない。死ねばもちろんもう煩悩は無くなるのであるが、煩悩具足の凡夫のままで終わっても、それが少しも問題にならないということである。

煩悩具足の凡夫という点では、信心念仏の人も仏法に全く縁のない人も全く変わらない。同一である。ではどこが違うのかと言えば、信心念仏の人には、我が身は煩悩具足の凡夫という目覚めがあるが、聞法しない人にはその目覚めがないことである。このことが天と地ほどの大きな違いになるのである。仏陀の教えによれば、すべて人は一人の例外もなく大いなるもの、如来のはたらきの中にある。法のはたらきの中に包まれている存在である。しかしそれがその人の上に事実となるためには、言い換えれば法がその人に成就するためには、その人が「愚かな凡夫」という目覚めを持たなければならない。すべての人を助ける法はもう申し分なく成就している。それに付け加えるべきものは何ひとつない。ただ問題は、その法をいただく私の問題が残っているのである。安田理深先生の言葉であったか、「助けるか助けないかは法の問題であり、助かるか助からないかは私の問題」と言われる。「ただ信心を要とす」と言われるように、信心一つが待たれているのである。

仏法を聞いて、私は煩悩具足の愚かな凡夫であったと目覚めることが無いならば、仏法(本願)ははたらきたくてもはたらくことが出来ないのである。つまり「愚かな凡夫」と分かることは、人間の我が身をたのむ自力の心が打ち砕かれることである。自力の心が打ち砕かれて無きも同然になることによって初めて、他力(如来の法)が生き生きとはたらいて、われらをして仏ならしめることが出来るのである。

仏法者にとって死活の問題は、仏になるかならないかではなく、現生に信を得ることである。他力の信の中にすでに仏の徳が回向されているのである。したがって信心の人にとっては、肉体の命が終わることは何等問題にならない。咲いた花が散るように自然なことである。