<香椎仏研>                          2013年1月10日          

「一念の信と罪の消滅」


第35条    

一. 順誓申しあげられ候う。「『一念発起のところにて罪みな消滅して正定聚不

退の位に定まる』と『御文』にあそばされたり。然るに『罪は命のあるあいだ罪もあるべし』と仰せ候。『御文』と別に聞こえ申し候うや」と申し上げ候う時、仰せに「『一念のところにて罪みな消えて』とあるは、一念の信力にて往生定まる時は罪は障(り)ともならず、されば無き分なり。命の娑婆にあらん限りは罪は尽きざるなり。順誓は早や悟りて罪は無きかや。聖教には『一念のところにて罪きえて』とあるなり」と仰せられ候。「罪の有る無しの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし、罪消えて御助けあらんとも罪消えずして御助けあるべしとも弥陀の御計らいなり。われとして計らうべからず、ただ信心肝要なり」とくれぐれ仰せられ候うなり。

(語注)

・「一念(発起)のところ」

「一念」には、信心を得る端的な時の意味と、信心を得たそのすがたを表す場合とある。 前者は「一念というは信心を得る時のきわまりをあらわす語なり」(「一多証文」・19-2)  時のきわまりとは目覚めの時が熟すことである。それは煩悩の時間が極まって如来の時間に転換するその時の転換である。

後者は、「一念というは信心に二心無きが故に一念という」(「御本典」信巻・12

-83) 「無上智慧の信心を聞きて一念も疑う心なければ真実信心という」(「唯信鈔文意」・20-3)など、「一心」と同じ意味で用いる。

・ 罪・・・道理(根源の真理)にそむくような悪業をなし、そのために苦の報いを招く行為のこと。 一般には悪=罪であるが、罪にはその結果=報いを強調する一面がある。(仏教語大辞典=「悪い行いの報い」・「作悪得罪」)  

  第18願の「唯除五逆・誹謗正法」について「尊号真像銘文」には、「五逆の罪人を嫌い謗法の重き咎を知らせんとなり。この二つの罪の重きことを示して十方一切の衆生皆漏れず往生すべしと知らせんとなり」とある。(17-2 ) 五逆・謗法は重い罪である。

「御文」にあるように広い意味では衆生の悪業・煩悩のことを罪という。

しかし世間でいう罪に対して仏教の特色は、公的なものを我がものと私有化することを代表的な罪と見ているようである。

・ 障(さわり)・・仏の救いを妨げるもの。或いは仏道を妨げる働き。

  「尽十方無碍光明」について、「無礙(碍)というはさわることなしとなり、衆生の悪業煩悩に礙えられざるなり」とある。(17-4 )

・「御文」(「五帖目第五通」・29―62) 第13通など

「南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。・・・されば無始以来造りと造る悪業・煩悩を残る所もなく願力不思議をもて消滅する謂れあるが故に、正定聚不退の位に住すとなり」

この条の中心になっている言葉は「一念の信力にて往生定まる時は罪は障りともならず」であろう。信力とは如来の本願の智慧の働きのことである。

1、罪の消滅

「罪は命のある間罪もあるべし」(「命の娑婆にあらん限りは罪は尽きざるなり」)これが人間の罪に対する仏教の教えである。けれども本願の教えでは、信の一念が成立した時、罪は消滅するという。罪は無くならないといいながら、その舌の根も乾かないうちに無くなるという。それはおかしいではないかと順誓は問うたのである。なるほどもっともな問いである。

これに対して蓮如上人は「御文」の「一念(発起)のところにて罪みな消えて」という言葉を上げて、信心は如来の智慧のはたらきであるから、信心が成立すれば罪はあっても障りとはならない、障りとならないならば無きも同然である、無いと変わらない、と言われた。この上人の教えで分かることは、「罪が無くなる」とは「罪」そのものが消えてしまうということではなく、「罪の障り」(仏道を妨げるはたらき)が無くなることである。(それを「御文」では「消滅する謂れある故に」といっている)

罪の障りが無くなるとはどういうことであろうか?それを仏教では「転悪成徳」という。ここでいう悪は広く私の救い、或いは仏道のあゆみを妨げるものという意味であろう。それをここでは罪という。罪を生み出すものは人間」の分別心であるから、それが仏の智慧(無分別智)によって打ち砕かれて、仏の徳(真実功徳)を成り立たせるもの、仏法(念仏)の内容となり、仏法の尊い働きを証明するものになるのである。罪が消えてなくなるというよりも、その意味が変わるのである。マイナスの中にプラスを見出すのである。「罪障功徳の体となる」という言葉もある。(和讃) これを念仏してあるがままを受けとるという。

人間の知恵は「分別知」であるから、何でも物事を自分を中心にして二つに分け、自分にとって都合の良い方を取り入れ、悪い方を排除するところに特色がある。たとえば私たちは、利害損得とか苦と楽、善と悪、優劣など、本当は分けられないものを分け、それにとらわれて苦しむ。これを「分別苦」という。そして一旦分けるとそれを結論として握ってしまい、固定化して別の見方が出来ない。それに対して仏の智慧は、縁起の道理にもとづいているから、どんなに私の意(こころ)に反するような事柄であっても、柔らかく受けとめ、決してそれを結論としない。たとえどんなに重い罪悪を犯しても、それを仏の本願をいただく大きな縁として受け取ることが出来るのである。

仏法はあらゆる現実を本願をいただく縁とする智慧である。われらの苦悩の因は我執の煩悩である。我らが煩悩に覆われている限り、種々の縁によって次々と苦しみが出てくるのは当然である。煩悩の因が縁と結びついて苦悩の果をもたらす。しかし縁起の道理に目覚めた者は、その苦悩の果をもう一つの縁とすることが出来る。決して苦悩の果をそのままにしない。その場合は本願が因である。本願の因がある限り、苦悩は果ではなく縁になるのである。我らは苦悩を縁として仏の本願と新たに出遇うことが出来るのである。

現実を縁として受け取るということは、それを出発点として立ち上がる、新しくあゆむということである。そこに如来とともに罪を引き受け、罪を担った人が誕生する。罪を引き受ける力は私の中にはないが、如来の本願をいただき念仏申す身になったものは、本願の智慧と一つになるが故に、どのような罪も引き受ける力を与えられるのである。今まで犯してきた無数の罪は消えることはないが、その罪を担うことによってその罪がかえって仏道を歩ませる力になる。「念々称名常懺悔」のあゆみがそこに生まれる。もし罪が全く無かったならば、懺悔すべきものがなく、したがって念仏生活は成り立たないということになるのである。

2、罪の有無よりも信の有無を沙汰せよ

罪の有る無しは結果の問題である。仏法をいただいた結果救われるかどうかということである。私たちは何をしても常に結果を考え結果を求めずにはおれない。結果さえよければよいと思う。したがって良い結果が得られると分かれば本気になるが、分からなければやろうとしない。そこに人間の計算高さ、功利性がある。これ一つ取っても人間には真実まことが無いことが分かる。

それに対して本願の仏道は何処までも結果を生み出す因を大切にする。信心は仏法によって救われる因である。正しい因に立つことが出来ればその結果は考える必要がない。なぜならその因は仏の覚りの智慧(証)が回向されて出来たものであるからである。

〈覚りの智慧〉―→〈本願〉―→〈名号〉―∥→〈信心〉

たとえば柿の実の中に種が入っているように、因の中に必ず果を実現するはたらきが申し分なく成就している。したがって信を得ることがすべてなのである。

それでは信の有無を沙汰するとはどういうことであろうか?それは私の心で信心をいただいたかどうか計らうことではない。同行との讃嘆談合によって、恩知らずの我が身を具体的に知らされ、如来・聖人・善知識のご恩を改めていただくことに尽きるのではないだろうか。信心の沙汰は懺悔と讃嘆の徹底に尽きるのである。