2015年12月10日

                       「願 心 の 転 回」

第122条 

 一、前々住上人仰せられ候。「聴聞心に入れ申さん」と思う人はあり。「信を取らんずる」と思う人なし。されば「極楽はたのしむ」と聞きて「参らん」と願い望む人は仏にならず、弥陀をたのむ人は仏になる」と仰せられ候。

 

○ はじめに

この条は前半と後半と二つに分かれていて、後半の言葉は前半の言葉を言いかえたものである。すなわち、「聴聞心に入れ申さん」という言葉は、「極楽はたのしむと聞きて参らん」という言葉と対応しており、「信をとらんずる」と思う心は、「弥陀をたのむ」心と等しい。

原文は「聴聞心に入れ申さん」と思う人と、「信を取らんずる」と思う人と、二種類の人があるように出ているが、私はこれは仏法を聞いて歩んでいく人のおのずからなる転回を表わしている言葉と受け取りたい。つまり仏道に出発したばかりの人は、誰でもまず「聴聞心に入れ申さん」と願ってひたすら聞法していくのであって、それしかないけれども、やがてそのようなあゆみの問題点に気がついて、「信を取らんずる」(信心の人になりたい)と願うようになるのである。この条の主題を「願心の転回」としたのはそのためである。

 

1、「聴聞心に入れ申さん」

仏法を聴聞するのは何の為かと言えば、仏法を私の心の中に入れて、仏法によって自分の心をもっと立派にしたいと願っているからである。それまでは自分の欲望(煩悩)のままに生きて来たけれども、私はこのままでよいのだろうかという問いにうながされて仏道を求める心が起こったのである。若い頃、私たちが亡くなられた先生からしばしばお聞きした言葉は、〝君はそれでよいのか〟であった。私たちは自分の考えや生き方について、本当にそのままでよいのかと、大いなるものから問われているのだという教えを聞いて、心に深く残ったことを覚えている。

一寸したことですぐに腹が立ったり、自分の思い通りにならないことが起こると止めどなく愚痴が出たり、失敗するとすっかり落ち込んでウツになったり、すぐに他人と比べて一喜一憂している自分を見ると、自分の不安定さが気になり、こんな自分ではだめだ、もっと確かな自分になりたいと思う。聞法すればそのような自分の弱さ、不確かさを解決できるのではないだろうかと思い、一生懸命聞法した時期が私にもあったように思う。

高校時代の私は、気が弱くて自信がなく劣等感が強かったので、そのころ仏法を熱心に聞いていた父が、「仏法を聞いていくとハラが出来る」というのを聞いて、そうか、仏法を聞いてゆけば少々のことでは動じないハラが出来るのかと、その言葉に心を惹かれたことがあった。

このように、誰でも初めは自分の為に、自分が少しでも幸せになる為に仏法を聞こうと思うのであって、これが求道の出発点である。つまりどこまでも自分が中心、自分が主役であって、仏法を聞いてその仏法を取り込んで自分の価値を高めたい、何が出てきても受け止められるようなしっかりした人間になりたいと、仏法を自分が立派になるための方法、道具として利用することしか考えられない。やれば出来ると私の努力の延長上に私の救いを求める道である。この段階を「自力の聞法」という。

このような聞法の問題点は、仏法を聞いてゆけば私の心は立派になるはずと思っていることである。これは一種の理想主義である。この段階ではまだ自分の中の心の闇の深さを知らない。私の思いは正しい、間違っていないと自分を肯定し、その自分の思いそのものの中に何が潜んでいるかを知ることが出来ない。自分の思いの絶対化を出ることが出来ない。したがってこの段階では、どこまでも私が中心であり、私が主役であって、如来の登場する余地がない。常に〝私が〟〝私が〟〝私が〟となっていて、如来はどこにもいない。仏法を聞きながらも、私の仏道のあゆみの中には如来がいないという、如来不在のあゆみになっている。如来を必要としない仏道である。

したがって、いつ、どこで、何をしても、それをした自分が残っている。どんなに善いことをしても、いや善いことをすればするほど、あれは私がやったのだと〝私〟がついて離れない。世間に認められ、よい結果(評価)を得たいと思う心が付きまとっている。このように〝私〟に対する関心と執着を一歩も離れることが出来ない。そのことに気がついて、これではいけない、こんなことではだめだと自分を責める心が出てくると、これがストレスとなって自分を苦しめる。こんなことなら聞法しないほうがよかったと思ったりするのはこういう時である。このような経験を持たない人は一人もいない。

仏法はそのような自我を離れるための教えであるが、その教えを自我関心の中に取り込んで聞いている。原文の中の「極楽は楽しむと聞きて参らんと願い望む」という言葉は見事にそれを表わしている。自分の中に深く根を張っている「苦を避け楽を求める」我愛の煩悩は少しも問われないのである。

このように仏法を自分の中に取り込んで、その仏法によって助かろうとする聞法のありかたを、「籠に水を入れる」聞法という。(第88条) また『無量寿経』に出ている「修心仏法」という言葉は、「心を仏法に修す」と読んであるが、これは「心に仏法を修す」とも読める言葉である。(1-48) このように読めば、私の心の中に仏法を取り込むという意味になる。仏法よりも私の方が大きいのである。私の仏道は「心に仏法を修す」あゆみか、それとも「心を仏法に修す」あゆみか、どちらになっているのだろうか?繰り返すように、どんな人も最初は「心に仏法を修す」という求め方しか出来ない。

2、「信を取らんずる」

信心とは、私が本願の教えを聞いてこれは絶対間違いないと信じ込むことではない。そういう心の状態というか心理状態になることではない。「信を取る」とは、本願の教えを聞いて、私の心というよりも私の身が変わることである。原文の言葉でいえば「弥陀(如来)をたのむ」身になることである。これは私そのものの180度の転回であり、「回心」である。身とは心や言葉、行動をひっくるめた私の全体、私の存在そのものである。心は縁によってコロコロ変わるけれども、私の身は簡単には変わらない。

聴聞は言うまでもなく「信を取る」ためのものである。しかし「信を取る」ことは私の努力によっては不可能なことである。なぜなら「信を取る」とは原文にあるように、如来(弥陀)をたのむこと(如来にまかせること)であるが、人間はわが身をたのむ自力の心のかたまりであるから、この自力の心が崩壊しない限り如来をたのむことは出来ないからである。自力の心は、第19願の教えにあるように、自力の努力を尽くさないとその限界を知ることは出来ない。善導大師の「二河白道」の教えはそのことをよく物語っている。貪愛と瞋憎の煩悩を自分で何とかしよう、これではいけないと、やればやるほど泥沼の中であがくようなもので、にっちもさっちもゆかなくなる。

善導はこの自力心の完全なゆきづまりを「引き返すことも死、とどまることも死、先に向かうことも死」という「三定死」に喩えているが、そこに到るまでの悪戦苦闘が自力を尽くす歩みである。如来=阿弥陀をたのむ心はこの「三定死」によって生まれる。〝われをたのめ〟という本願の呼び声はこの「三定死」のところに聞こえてくる。折角長年聞法しても、ほとんどの仏法者はこのような自力の心の死のところまで行かないために、結局信心を得ることが出来ないままで終わるということなる。

(注)この「三定死」のことを親鸞聖人は『愚禿鈔』の中で「前念命終」と言われた。

蓮如上人はこのことを深く悲しまれた方である。私は蓮如上人ほど人に信のないことを深く悲しまれた方はなかったのではないかと思う。(それはこの「聞書」の第111条を見るとよく分かる。「人の信なきことを思うことは身を切り裂くように悲しきよ」)

「信を取る」とは、弥陀をたのむ(弥陀にまかせる)外ない私に目覚めることである。我執の煩悩を超えることは、全く私の手にあまること、如来(アミダ)にまかせるほかないとはっきりわかることである。先ほどの「二河白道」の教えでいえば、私には煩悩を超える力があると思う自力の心が命終することである。

その結果、如来を相手に生きる私が誕生する。私の毎日の生活は如来と共なる生活であって、いつでもどこでも如来がついて離れない。如来不在の生活などあり得ないまでに、如来と私とが不離一体となった生活である。信とは如来の世界を持つことである。如来の中の私に目覚めることである。如来にまかせる外ない愚かなわが身に目覚めることである。先ほどの譬えでいえば、「籠を水に漬ける」ことである。愚かな私と如来の前に頭を下げることである。それを蓮如上人は「弥陀をたのむ人」と言われたのである。

如来とは、ブッダの悟った真理、法のはたらきであるが、それは私と無関係にどこかにあるのではなく、私と一つになって私を照らし、私に呼びかけ、はたらきかけている法である。そのような法を南無阿弥陀仏という。如来とは南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏とは、何よりもまず「光明無量」、私の我執の闇を照らし破る智慧の光である。その光はおのずから、自我にとらわれてそこから出ることの出来ない私を呼び覚ます声になる。私はいつでも、どこでも、常に如来から悲しまれ、痛まれ、願われている存在であり、それゆえに如来から限りなく呼ばれているのである。〝汝、直ちに帰れ、来たれ。我をたのめ〟と。

信心の無い人は、いくら仏法を聞いても如来がいない。いつでもどこでも、何が起こってもそこにいるのは私ひとり。私しかいない。如来はどこにもいない。したがってそういう人が年老いて一人暮らしをするようになると、まさに孤独地獄に堕ちる外ない。それに対して信心の人は、常に如来と一つであり、如来から切り離された私はどこにもないのだから、たとえ一人であっても孤独地獄はあり得ないのである。

ところで、尽きることのない迷妄と苦悩を抱えた私たちが如来によって救われるためには、如来の功徳のすべてを与えられなくてはならない。如来の功徳とは真実である。真実功徳である。衆生は如来の徳の一部分では救われない。では如来はどうすれば自らの功徳のすべてを衆生に与えることができるのだろうか?これは難題である。その課題を考えぬいた結果、終に如来が見出した方法は、如来の功徳のすべてを南無阿弥陀仏という名号に托して衆生に与えることであった。

如来みずから南無阿弥陀仏という名号となることによってのみ、それが可能となったのである。如来の全体をそのまま衆生に与える唯一の方法が名となることであった。これを全体廻向という。

「我が弥陀は名を以て物を摂したまう」(12-33・元照律師)

阿弥陀の名=南無阿弥陀仏の中に如来の真実功徳のすべてが成就している。したがって聖人は名号のことを「真実功徳」と言われる。(19-9) われらはその名号の内容をひたすら諸仏・善知識の讃嘆を通して聞くのである。信心はこの名号=南無阿弥陀仏の道理を聞いて、本願の真実を受け取ることによって生まれる。それを『無量寿経』の本願成就文では、「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜」というのである。