2015年7月9日
「よき師のよろこび」
(第116条)
一. ある御門徒衆に御尋ね候。そなたの坊主、心得の直りたるを嬉しく存ずるかと御尋ね候えば、まことに心得を直され、法義を心にかけられ候。一段ありがたく嬉しく存じ候由申され候。その時仰せられ候。我はなお嬉しく思うよと仰せられ候。
(意訳)
蓮如上人があるお寺の門徒の一人にお尋ねになられました。「あなたの檀那寺の住職が今までと違って、仏法を熱心に求める道心の厚い人になったことをあなたは嬉しいと思うかね」と。するとその人は、「ハイ、上人のおかげで住職は心得を直され、仏法の教えを大切にして聞法されるようになられました。何よりありがたく、嬉しく思っております」と答えられました。それを聞かれた上人は、「私はもっと嬉しく思うよ」と仰いました。
この条で一番心に響く言葉は、最後の蓮如上人の「我はなお嬉しく思うよ」である。この言葉から窺がわれるように、上人は御門徒衆の教化と共に、むしろそれ以上に、坊主と呼ばれるお寺の住職に対する教化に心血を注がれたのである。なぜなら、坊主たちの仏法に対する心得が間違っているならば、御門徒衆に親鸞聖人の教えが届くことはとても期待できないからである。しかしながら、その坊主に対する教化が容易でなかったことは、「御文章」の中の次の言葉からよく知ることが出来る。
「近年は仏法繁昌とも見えたれども、まことに以て坊主分の人に限りて信心のすがた一向無沙汰なりと聞こえたり。もってのほか嘆かわしき次第なり」(四帖目・第七通)
「坊主の信心不足の由を申せば、以ての外腹立せしむる条、言語道断の次第なり」
(同 四帖目・第八通)
(1) 住職の存在価値
自分の檀那寺の住職が仏法を本気になって求める心がなく、本当の求道者でないことほど残念で淋しいことはない。なぜならお寺にお参りしても住職と心を開いて仏法を讃嘆することが出来ないからである。お寺が葬式や法事などの儀礼行事が中心になっている限り、門徒と住職の関係も形式的なものにならざるを得ない。しかしお寺は何より仏法を学ぶ、聞法の道場であると共に、同朋・同行相集まって、仏法の尊さ、仏法に出遇った喜びを打ち解けて共に讃嘆する場所である。仏法は一人であってもしみじみと喜ぶことの出来る法であるが、それが3人、5人となればその喜びは倍加する。お寺の住職や坊守はおのずからその讃嘆の中心となることによって、仏法を盛んにする役割を担っているのである。道心のあふれる住職がそこにおられるだけで、お寺は仏道を学ぶ道場になるのではないかと思う。しかしもし住職にそのような自覚がなく、道心が無いならば、建物はどんなに素晴らしくてもお寺にならないに違いない。お寺が「学仏道場」になるかどうかのカギを握っているのがお寺の住職である。
(2) 坊主(住職)の心得違い
仏法に対する心得といえば、何よりも頭を下げて謙虚に仏法をいただく姿勢である。御門徒衆に仏法を伝える立場の住職が、仏法によってわが身を照らされることが一番大切なことであって、人々に仏法を伝えることは第二義のことである。なぜなら自ら聞法して本願の世界(信心の世界)に出されていない者が、人々に仏法を伝えることなど出来るはずがないからである。坊主こそ誰よりも熱心に、積極的に「法義を心にかける」人でなくてはならない。常にお聖教を繰り返しいただいて、「聖教を読み破る」人でなくてはならない。そのためには、住職自身が頭を下げて教えを学ぶ指導者を持って、常日ごろ教え導かれる立場に身を置くことが大事である。
お寺の住職(坊主)が本物の求道者(聞法者)になることを妨げているものがいくつかあるようである。
1) 葬式や法事(檀家まわり)等、儀礼的な行事を行うことによって生活を支えていること。つまりお経を読むことが職業であり、食べていく手段であって、門徒の多い寺になるとそれだけで手一杯で、とても自ら聴聞し勉強するゆとりがないと言われる。
これが大きな障りとなる。
2) 最初から門徒の上に立って、門徒を教え導く指導者の立場に置かれているためそれを当然のことのように思い、自分の足りない所や問題点に中々気づかない。
これは前回も触れたように、指導者意識、教化者意識の問題である。これはすべての人間が抱えている憍慢心、名利心としっかり結びついていて、この問題をこえることは容易ではない。しかしこの問題をこえない限り、先にいうように門徒衆を教化することは成り立たない。なぜならこの指導者意識ほど人間にとって居心地のよいものはないと共に、指導者意識ほど仏法のはたらきを妨げるものはないからである。人は指導者意識の強い人に対しては決して心を開こうとはしない。
天親菩薩は『浄土論』の中で「名利心」を「供養恭敬自身心」(自身を供養し恭敬する心)と言った。自身つまりわが身を供養し恭敬するとは、言い換えれば、わが身に対する供養と恭敬(尊敬)を他人に求める心である。まず供養とは、本来仏・菩薩に対して民衆が感謝の思いの表現として、食べ物などの物やお金、サービス等を差し上げることである。それを自分にしてくれと求めるのであるから、これは「名利」の「利」(利益、利養)を求める心である。「利」とは私のためになること、私を喜ばせてくれるもの、つまり私の煩悩を満たしてくれる物や行動などはすべて入る。
恭敬とは本来、頭をさげて仏・菩薩の徳を敬う心であるが、ここでは私に対する尊敬を周囲に求める心である。換言すれば、私を粗末にするな、もっと大切にしてくれという心である。これは「名利」の中の「名」に当たる。「名」を求めるとは、私という存在をもっと認めてほしい、重んじてくれ、軽くみるなという心で、それは人の上に立って多くの人を指図し、動かしたいという心になる。つまり多くの人に自分が一番すぐれていると認めさせ、頭を下げさせたいという心である。
このような「憍慢心」や「名利心」は人間の地体であるから、とても無くすることは出来ない。無くなることはないが、仏の智慧に照らし出されてこれが私の正体と自覚することは出来る。私の自覚の内容になるならば、それがかえって仏法の尊さを教え、私の聞法の原動力になる。私の歩む仏道の内容になるのである。超えるとはそういうことである。
この「聞書」の第93条に、「信もなくて人に〝信をとられよ、信をとられよ〟と申すは、我は物を持たずして人に物をとらすべきというの心なり。人承引あるべからず」とある。
痛切な言葉である。信心とは、ひたすら聞法して、わが身をたのむ自力の心を打ち砕かれて、本願の世界に出されることである。このような信を得た人は、おのずから他の人々に働きかけて仏法を伝える力を持つ。なぜなら、他力の信心は如来の本願が届いて生まれた心であるから、信心の中に他の人々を動かす力が自然に具わっているからである。
これを中国の曇鸞大師は、『浄土論註』という書物の中で、菩提(覚り)を求める心=菩提心は「願作仏心」(仏に作らんと願う心)であり、「願作仏心」はおのずから「度衆生心」(衆生を済度しようとする心)であるという。この「願作仏心」が他力の信心である。なぜ「願作仏心」が「度衆生心」と等しいのかというと、衆生の「願作仏心」(=自ら仏陀に成らんと願う心)は、如来の本願(衆生を救済したいという度衆生心)が届いて生まれた心であるから、衆生の「願作仏心」の中に、如来の「度衆生心」がちゃんと入っているからである。
「願作仏心」(信心)の中の「度衆生心」が、おのずから人々にはたらきかけていくようになっているのである。
[仏の「本願 」(度衆生心)―→衆生の「信心」(願作仏心=度衆生心)―→ 他の衆生]
したがって私が苦悩の衆生を助けようと思って努力する必要はない。それは私の努力によって成り立つようなものではない。あくまで如来のはたらきである。しかしその如来のはたらきは私の頂いた信心の中に具わっているのである。そうすると私の為すべきことは、ひたすら聞法して信心の世界に出ることである。つまり私に出来ることは自利のみであって、利他は如来にまかせることである。
(3) 蓮如上人の喜び
この条の中に「嬉しい」という言葉が三回も出てくるが、最後の蓮如上人の「我はなお嬉しく思うよ」という言葉が一番生きている。上人は何を嬉しく思われたのだろうか?
勿論、直接には坊主が心得を直したことである。しかしそれだけでなく、坊主が心得を直したことを門徒衆が喜んでいることである。坊主がいくら心得を直したといっても、門徒衆にどう受け止められているか、それが大事である。したがって、門徒衆が坊主の進展をよく知って喜んでいることを聞いて、上人の喜びは更に大きくなったのである。
ところで教えを説いて人々を仏法の世界に導く善知識(よき師)の最も大切な仕事は、苦悩している人々を直接救うことではない。いくら優れた善知識であっても、たとえば釈尊であっても、人間の苦悩を完全に救うことは人間には出来ない。人間の限界である。人間の苦悩を本当に解決できるものは、ブッダの悟った法(ダルマ 真理)だけである。釈尊に代表される諸仏、善知識も、実は阿弥陀なる法に依って救われた人々である。
それでは善知識に出来る仕事は何かというと、底のない苦悩の中で道を求めている人に対して、あなたを本当に救うことが出来るのは阿弥陀なる法である、どうか阿弥陀なる法に依れ、阿弥陀に帰命せよ、弥陀をたのめと勧めることである。これを「発遣」という。これは釈尊といえども同じであって、『観無量寿経』を見ると、あの悲劇の主人公のイダイケに対して、「汝、今知るや否や、阿弥陀仏ここを去ること遠からず」というしかなかった。意訳すると、「イダイケよ、阿弥陀仏は今、ここ、あなたのところにおいでになるのだ。どうか今、ここで阿弥陀仏に出遇ってくれよ」という勧めである。
今、蓮如上人が坊主に対して心得を直され、勧められたことも「阿弥陀をたのめ」とう教えだったに違いない。前回の114条にあったように、上人は一人一人に対して、この人がついに阿弥陀に帰命する身になってくれるためならどんな苦労も厭わないと、身を捨てて教化されたのである。
もしその苦労の甲斐あって、気にかかっていた人がついに心得を直し、念仏申す人になったとすれば、それは全く自分の手柄ではない、すべて阿弥陀のおはたらきによるものだと、何より如来のおはたらきの真実まことを喜んでいかれるのである。
「我はなお嬉しく思うよ」という言葉は、私の苦労が報われたから嬉しいというお気持ちではない。如来の真実の力を実感できたことが何よりうれしいと喜ばれたのである。
この上人の言葉を心にとどめて、「御一代記聞書」に載せられた人は、上人のこのさりげない言葉の背後に、如来の真実まことの心を深く感得されたからであろう。