<香椎仏研> 2015年2月12日
「時節到来の秘密」
(第105条)
一、「〝時節到來〟という事、用心をもしてその上に事の出来候うを〝時節到来〟とはいうべし。無用心にて出来候うを〝時節到来〟とは言わぬ事なり。聴聞を心がけての上の〝宿善・無宿善〟ともいうことなり。ただ信心は聞くにきわまる事なる」由仰せられ候。
(語注)
・時節到来・・・・時節とはよい機会 好機ということ。ここでは、終わりに「ただ
信心は聞くにきわまる」とあるから、信を得る時が来るという意味
であろう。
・用心・・・・心を用いる 心がける
<意訳>
〝時節到来〟というのは、日ごろからそのことを常に心がけ、長い時間をかけて色々と努
力精進して初めて実現することであって、何も心を用いず、努力もしないのに仏法が分かっ
たというようなことは〝時節到来〟とは言わないのである。〝宿善・無宿善〟ということ
も、平生しっかり聴聞をした上でいう言葉であって、信心獲得の道は、わが身の宿善の有無
などにとらわれず、ひたむきに聞法精進してその結果は如来におまかせすること、このこと
に尽きるのである。
1、時機純熟
仏の悟った法は時、所、人を超えているので、いつでも、どこでも、誰でも出遇うことが出来る。2500年前に仏弟子たちが出遇って救われたその同じ法に、今、私たちも出遇うことが出来る。(浄土教では、仏陀の悟った法を阿弥陀仏といい、本願という、又南無阿弥陀仏という) しかし仏の悟った法に出遇うためには、法(ダルマ、真理、道理)に目覚めなくてはならない。道理に目覚めるとは、道理に背いている自分に目覚めることである。深い迷妄を抱えたわが身と出遇うことである。
しかしながら、はかり知れない長い間、迷い続け流転し続けてきた自我の迷妄に覚めるということは容易なことではない。人間の中には目覚めることを拒むものがしっかり根を張っているので、それと戦い、勝利するためには相当の長い時が必要である。すぐに結果を求めずにはおれない私たちには、とても待ちきれないほどの長い時間に耐えなくてはならない。
法は時を超えているが、私たちがその法に目覚めるためには時がなくてはならない。人間の自覚には必ず時があるのである。弥陀なる法と出遇い、法に背いているわが身に目覚めることを信心という。「時節到来」とは、その目覚めの時、信を得る時がやってくることである。しかしその時は何時なのか、私たちが予想することは全く出来ない。なぜならそれは如来(法)のはたらきによって成り立つことであって、私の努力によって得ることは出来ないからである。
「時機純熟」とは、時は時間、機は人間の目覚めつまり心のこと。時と機が熟すとは、時が熟してはじめて機(人間の目覚め)が熟すという意味であろう。言い換えれば、機が熟す、道理に目覚めるためには時が熟すということがなくてはならないということである。つまりわれらが仏法に目覚めること、信心が成立することを、時が熟すという表現でいうのである。それはどういうことかというと、自覚には相当の時間が必要だということ、したがってその時がくるまでジット待ち続けなくてはならないということを示している。どんなにあせって色々と計らっても、その時が熟すまでは無効である。時が熟すとは、その間に色々な条件が十分に整うことである。
たとえば、私の自宅のすぐ近くに竹藪があり、春になると毎年たけのこが顔を出す。あのたけのこが堅い大地を破って出てくるためには、気温の変化や水分、養分などいくつかの条件が必要である。春がやってきても、若しその条件(それを縁という)が一つでも欠けているならば、たけのこは顔を出さないはずである。つまり時が熟す(時熟)とは、縁さえ整えば黙っていても必ずそうなる、自然に(おのづから)そうなるということである。この「時機純熟」から私たちが学ぶことは、その自然性と必然性である。つまりそれは人間の作為やはからいの全く入らない世界である。私たちが聞法を尽くした結果、時節到来して如来と出遇うということは、まさに時機純熟なのである。信を得るということは時機純熟することである。
信心は「帰命」とも呼ばれ、阿弥陀をたのむ心である。「たのむ」とはお願いすることではなくて任せることである。しかしこの「弥陀をたのむ」心は、私が自分の意志で起こすことは出来ない。自分の意志で起こしたものには自我に濁りが入っている。
この「弥陀をたのむ」心について、『歎異抄』の第一章では、「念仏もうさんとおもいたつ心のおこるとき」とあり、また蓮如上人の『御一代記聞書』の第一条では、「弥陀をたのむ一念のおこる時」となっている。(30-1) これで分かるように、どちらも「起こす時」ではなく、「起こる時」となっている。このように「弥陀をたのむ」帰命の心は、聞法のはてに、時が熟しておのずからおこる心なのである。私がよし今日から起こそうというわけにはいかないのである。
2、時節到来をもたらすもの
「時節到来」とは、「用心をもしてその上に事の出で来」るとあるように、何もしないで成り行きにまかせておったのでは、何事も成就しない。時節到来ということはあり得ない。しかし先にもいうように、阿弥陀との出遇いはどこまでも法のはたらきによるのであって、人間の努力によって成り立つことではない。法のはたらきは人間の知恵と努力を根本的に超えているので他力と呼ばれる。他力とは如来の本願のはたらきである。人間は如来の本願のはたらきによって助かるのである。本願のはたらきによって助かるとは、本願のはたらきにまかせることである。その他力=本願のはたらきをこうむるためには、私が根本的に変わらなくてはならない。
それに対して、人間が努力して仏の悟りを得ようとすることは自力であって、自力によって悟りを得ることは、自分で自分の体を持ち上げるようなもので、始めから不可能なことである。しかし人間はすべて自力の心のかたまりであって、私はまちがいない、やれば出来ると深くわが身をたのんで、自分の力を過信している存在であるから、如来の他力にまかせることはとても出来ない。
そうすると、「時節到来」を実現するための人間の努力とは、この私は如来の本願=他力にまかせる外ない無力で愚かな人間だと、自力の限界に目覚めるための努力ということになる。つまり仏法を学んで仏の智慧を獲得するための努力ではなく、その反対の、自分の力によって仏の智慧を得ることは不可能だとわが身の限界を知るための努力である。自分の限界に徹底的に目覚めない限り、私たちは如来の本願に任せることは全く出来ないからである。
「浄土宗の人は愚者になりて往生す」(「末灯鈔」21―6 )という法然聖人の言葉はそういう意味である。
そのような努力とは具体的には、仏法(本願の法)を聞くということ、つまり聞法である。
文中の「用心」とは、常に仏法を心にかけて聞法するという意味である。善知識を通して、本願の法を説いた聖教を聞いて聞いて、聞きぬくこと。その結果、ついにこの私はとても救いに値しない、どこを取っても自我の煩悩を超え離れることは出来ない愚かで罪の深い自分であったと分かる。それを信心というのである。信心の「信」という言葉には〝任せる〟という意味がある。信心とは、このようなとても助からない、助かる資格も手掛かりもないわが身に目覚めることであると言ったのは中国の善導大師である。( このような信心を「機の深信」という。) とても助からないわが身に目覚めることが、如来にまかせ果てる外ないわが身に出遇ったことであり、助かったことなのである。
とても助からないわが身に目覚めるということは、どこまでもわが身をたのんで手を放そうとしない自力の心が仏の智慧によって打ち砕かれることである。自力の心が崩壊することは、如来の本願(他力)を妨げるものが無くなる、無きも同然になる事であるから、煩悩具足の私が煩悩のままですでに本願によって摂取されていることを知るのである。
自力の心が打ち砕かれて、その結果本願をたのむということが成り立つのではなく、自力の心が崩壊すると、そのわが身はすでに如来本願の只中にあったのである。それを親鸞聖人は、『愚禿鈔』の中で、「決定して乗彼願力を深信する」と言われる。(14-19) わが身の限界を知ってそれから乗托するのではなく、すでに本願の中に乗托せしめられているわが身を知るのである。これを「法の深信」という。なぜならわれら凡夫は、始めから如来本願の中に摂取されているからである。
人間はすでに如来本願の中にありながら、わが身をたのむ自力の心のために如来本願との間に壁を作って本願を拒んでいたのである。したがって仏法を聞くとは、仏の智慧によってその厚い自力我執の殻を照らされ破られることである。自力我執に覆われていた本願を自力の執心から解放する営みである。
聴聞を重ねると、もう如来にまかせる以外に助かりようのないわが身であることは分かってくる。けれども、どんなにそういうわが身と分かっても決してまかせようとしない、まかせることの出来ない頑固な私にぶつかる。しかしこれがありのままの私である。如来はこのような厄介なものを抱えた私の正体を見抜ききって、この私と一つになって呼びかけ続けているのである。それはまるで流れゆく川の水に字を書くようなもので、書いても書いてもすぐに消え去って書いたことにならない。そのようなむなしいとしか言えない努力を黙々と続けている如来法蔵菩薩のご苦労をほんのわずかでも感得するとき、私は如来の前に身を投げ出さざるを得ないのではあるまいか。聞いても聞いても中々分からない自分を歎くだけでなく、このような私に何としても仏法を届けずにはおかないという如来・聖人・善知識の、気の遠くなるようなご苦労に眼を向けることは出来ないだろうか。
如来のご苦労を聞いても聞いても如来をたのむことが出来ないのは、わが身の邪見・憍慢のためである。この憍慢を超える道はたった一つ、懺悔することしかない。如来の前に頭を下げて申し訳ありませんとお詫びすることである。如来の本願はこの懺悔のところにイキイキとはたらくのである。
3、宿善の有無
「聴聞を心がけての上の宿善・無宿善ともいう事なり」
宿善とは長い過去から積み重ねてきた善根という意味で、今私が仏法に遇うことが出来たのはこの宿善のおかげであるという。しかしそれは誰の為した善根であろうか?自分の中に認めることは出来ないのではなかろうか?一般には先祖が仏法を大事にして求道してくれたこととか、自分が生まれ育った土地の風土や土徳のことをいうようである。
そうするとそのような宿善が有る人と無い人があり、宿善の無い人は仏法に遇うことは出来ないということになるが、そういうことだろうか?
私は宿善とは、仏法を求めずにはおれない心、宗教心(道心)のことだと了解している。人はすべて、本来求道の心を持っているのだけれども、それが現われるかどうかは縁による。したがって自分についても他人についても、宿善が有るとか無いとかいうことは間違っている。すべての人に仏法に出遇うことの出来る宿善があるとすれば、それは如来の働きである。一人一人の求道心の根源に如来まします。如来こそ宿善の担い手ではないだろか?