<香椎仏研> 2015年1月8日
「南無阿弥陀仏の救い」
(第101条)
一、丹後法眼 衣装をととのえられ、前々住上人の御前に伺候そうらいし時仰せられ候。衣の襟を御たたきありて「南無阿弥陀仏よ」と仰せられ候。又、前住上人は御畳を叩かれ「南無阿弥陀仏にもたれたる」由仰せられ候いき。「南無阿弥陀仏に身をばまるめたる」と仰せられ候うと符合申し候。
(語注)
・丹後法眼・・・本名は下間頼玄。参考書には、丹後法玄と号し、本願寺の内衆として活
躍したとあるのみ。
・伺候 ・・・ 参上して安否を伺うこと。
・身をばまるめたる・・・身も心も如来(南無阿弥陀仏)にまるめとられること。摂取不捨のこころである。
〈意訳〉
ある時、丹後法眼という方が正装して、蓮如上人に挨拶をされるために本願寺に参詣され
た。すると上人は丹後法眼の着物の衿をたたいて、「南無阿弥陀仏だよ」と仰った。これは
おそらく、私たちの身体が着物によって包まれているように、私たちは南無阿弥陀仏によっ
てすっかり包まれているということを言おうとされたのであろう。
又、実如上人は坐っている畳を叩いて、「南無阿弥陀仏にたもたれているのだよ」と仰っ
た。この二つの言葉は、蓮如上人の「南無阿弥陀仏に身をまるめられている」というお言葉と全く同じ心である。(蓮如上人の仰せとよくかなっている)
1、 南無阿弥陀仏とは何か
聖道門の仏道が専ら人間(行者)の努力精進によって悟りを開き、仏になる道であるのに対して、浄土門の仏道は、人間の努力によって悟りを得ることは出来ないという人間の限界を徹底的に知ったところに成就する。人間(私)の力によって悟りを得ることは、自分の身体を自分で持ち上げることが出来ないように、人間(私)には全く不可能なことであったと目覚めることが最大のカギである。このような目覚めが生まれたならば、仏の悟りの智慧の方から本願となり浄土となって、さらに南無阿弥陀仏となって私を摂取していることを感得することが出来るのである。浄土門仏教の救いは、その南無阿弥陀仏のこころを聞き開き、信を得て、南無阿弥陀仏に私の全体が丸ごと摂め取られることである。
仏法の全体、本願のすべてが南無阿弥陀仏となってわれらに与えられているのである。南無阿弥陀仏は、仏陀の悟った法(如来)が、法に背いているために迷い苦しんでいる衆生と一つになって、衆生を如来の世界に呼び返すはたらきである。如来は衆生を受け止めるだけでなく、衆生の煩悩の中に入り込んで、衆生の苦悩と一体となり、衆生と共に迷い流転しつつ、その中から限りなく呼びかけ働きかけて、衆生の目覚めを促し続ける。なぜなら苦悩の衆生を対象化して高い悟りの世界から働きかけたのでは、とても衆生を教化することは出来ないからである。
南無阿弥陀仏という言葉は、分解すれば「南無」と「阿弥陀仏」になる。苦悩の衆生を助ける能力は阿弥陀仏にある。阿弥陀仏は仏陀の悟った根源の真理(一如、涅槃、法性など)が形となって衆生の上にはたらきかけてくる具体的な相である。(それを法性法身に対して方便法身という) それを象徴的に表現して、〈光明無量〉といい〈寿命無量〉という。光明は智慧であり、寿命は慈悲を表わす。智慧は衆生の無明煩悩を照らし破る働きであり、慈悲はその衆生をそのまま無条件に摂取する働きである。
しかし阿弥陀仏はそのままでは具体的に衆生の上にそのはたらきを展開することが出来ない。そこで阿弥陀仏は、南無となって衆生の上にはたらきかける。阿弥陀仏から南無が出てきたのである。阿弥陀仏が南無になったのである。南無こそ阿弥陀仏の最先端であり、衆生との接点である。阿弥陀仏は南無となることによって苦悩の衆生と一つになることが出来るのである。
それを安田理深師は、「阿弥陀仏が南無になったから、我々が南無するならば阿弥陀仏と出遇える」と言われた。南無の中に阿弥陀の光明と寿命、智慧と慈悲の徳のすべてが生きている。阿弥陀仏は南無とならなければ、衆生と一体となって衆生を助けることは出来ない。南無とは、我ならぬ阿弥陀が我と一つになっているすがたである。
「南無」という言葉はサンスクリット語の音写であり、原語には「共に」とか「一つ」という意味と言われる。(児玉曉洋師) しかし辞書によれば「敬意を表すために体を折り曲げること」という意味もあり、中国では「帰命」と漢訳された。そこで善導大師は『観経疏』の中で「言南無者 即是帰命」と言われたのである。
そうすると、南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏の〝われ(阿弥陀)に南無せよ〟というわれらに対する呼びかけであると共に、その呼びかけが届いて衆生が〝阿弥陀に南無します〟という応答の言葉が一つになっているのである。〝南無〟という一語の中に如来の招喚と衆生の応答が同時に成り立っているということは、本来衆生は阿弥陀(如来)の中にあり、如来と衆生とは切り離せない関係にあるということを示している。よく言われるように、親と子は、親無くして子は無く、子無くして親は無いのであって、それと同様に、如来無くして衆生無く、衆生無くして如来は無いのである。すべて人は如来の中の存在である。
〝阿弥陀仏〟が煩悩の衆生の上にその本領を発揮するためには、衆生の上に〝南無〟が成立していなくてはならない。南無とは、はからいなく阿弥陀をたのむ心つまり他力の信心である。私たちはほんのわずかでも自分の能力を自負する心、わが身をあてにする心が残っているならば、阿弥陀に100パーセント任せることは出来ない。底抜けに広い世界に出ることは出来ない。
阿弥陀なる真実の前に、わが身をたのむ自力の心が徹底的に打ち砕かれて、「出離の縁有ること無し」(機の深信)と、私のどこを取っても助かるような手がかりがないと本当に分かること、それが〝南無〟である。それはたとえばある地面に建っていた建物が取り壊されて、その土地がさら地になったようなものである。阿弥陀のはたらきを妨げる自力の心がさら地になることによって、阿弥陀はその本領を発揮できる。そのような南無こそ阿弥陀なる法のイキイキとはたらく舞台になるのである。
2、「南無阿弥陀仏に身をばまるめたる」
蓮如上人は〈着物〉を例にとり、私たちは身も心も南無阿弥陀仏の中に包まれており、それからはみ出した私はどこにも無いといわれ、また実如上人は〈畳〉を例に挙げて、私という存在は、何があっても、どんな厳しい現実の中に身をおいても、常に南無阿弥陀仏によって持(たも)たれているのであり、生かされているのであると言われる。
着物とか畳という日常的なありふれたモノを通して、如来の摂取不捨のはたらきを感得されたところにこの条の新鮮さがある。それをこの著者は、蓮如上人がかって言われた〝南無阿弥陀仏に身をばまるめたる〟という言葉と全く同じであることに気づかれ、深く感動されたのである。
「南無阿弥陀仏に身をばまるめたる」という言葉は、主語が衆生と取れば、「まるめたる」という表現は適切ではないようである。衆生からは「南無阿弥陀仏に身をばまるめられたる」と、受け身の表現にするべきであろう。衆生の身(存在そのもの)をまるめとる働きは如来すなわち南無阿弥陀仏の中にある。これは言い換えれば、南無阿弥陀仏に摂取されているという意味である。
「まるめる」のまるは、漢字で書けば「丸」であるから、「丸」という文字の意味と無関係ではあるまい。辞書を引くと「丸」という漢字には、「欠けた所のない全体」という意味がある。つまり何一つ欠けた所のない(漏れたものがない)私という存在の全体が、南無阿弥陀仏の中に生かされているということである。どんな私も如来のはたらきの中にあるということである。
たとえばどうしてあんなことをしたのかと、いつまでも後悔して苦しむような罪悪も、又どんなにお粗末な失敗をしても、あるいはどんなに醜い煩悩が出てこようとも、それらが少しも障りにならない世界、どのような悪業煩悩も必ず転ぜられて仏道の内容として生かされるような、そういうとてつもなく広くて大きな世界に出されることである。「まるめる」という言葉にそのような南無阿弥陀仏のはたらき(徳)が言い当てられているのではないだろうか。「まるめる」とは阿弥陀仏によって「まるめ取られる」という意味であるから、摂取不捨をやさしく言い換えた言葉に違いない。摂取不捨こそ、阿弥陀を阿弥陀たらしめるものであり、本願の宗教の特徴である。
ところで「摂取不捨」の真意は何だろうか?摂取不捨というと、如来の光明の中に摂め取られることであるから、私はその中でジッとしているというイメージがある。何がやってこようともう如来にまかせたのだから、私はジタバタする必要はないと、如来の世界にどっかり腰を下ろすことだと考えやすい。しかし本当にそうだろうか?
如来のはたらきの中に摂めとられるということは、摂めとられた私が如来のはたらきと一つになるということである。私の中で如来がイキイキとはたらくyぷになったのである。言い換えれば、如来(本願)に生かされるだけでなく、如来(本願)をになって立ち上がるような私が誕生したということである。如来の願いを我が願いとして、如来と共にあゆむ行者になったのである。どうしてじっとしていることが出来ようか。
夜晃先生の言葉にあるように、本願念仏によって肩に微塵の荷物もなくなったものは、決してそこにとどまらず、富士の山より重い使命の荷物を肩に担って歩まずにはおられないのである。仏法によって救われるとは、決して居心地のよい安楽な世界の腰を下ろすことではないのである。
摂取不捨とは、もはやどのような私も如来大悲の中にあり、如来が私について離れないということである。しかしその如来とは「光明無量」なる限りない智慧のはたらきであるから、如来の智慧によって常にわが身を照らされ、わが我執の煩悩を照らし破られることである。
煩悩を煩悩と知らされることは痛みと懺悔を伴うことであり、決して居心地のよいものではない。しかし懺悔するところに如来との出遇いがあるのであるから、懺悔と歓喜、感謝は一体である。摂取不捨の喜びの裏には必ず懺悔があるのである。
私たちはいくら仏法を聞いても、我執の煩悩を無くすることは出来ない。善導大師の「二河白道」の教えにあるように、白道の中身が水火二河の煩悩なのであるから、寿命の尽きるまで無くなることはない。貪愛・瞋憎の煩悩がなかったら如来の白道は成り立たない。煩悩あるが故に常に白道が新たになり、仏法の味を味わうことが出来るのである。