<香椎仏研>                           2013年2月14日          

「 精進なくして仏道なし」

第46条    

一. 赤尾の道宗申され候。「一日の嗜みには、朝つとめに欠かさじと嗜むべし。

一月の嗜みには、近き処御開山様の御座候うところへ参るべしと嗜め。一年の嗜みには、御本寺へ参るべしと嗜むべし」 と云々。これを円如様きこしめし及ばれ、「能く申したる」と仰せられ候。

 (語 注)

・道宗・・・越中赤尾(現在の富山県東砺波郡上平村西赤尾)の人。蓮如上人に深く帰依して道宗という法名をもらった。名前に恥じず実に道心の厚い人で、そのおもむきはこの「聞書」の131条と192条によく出ている。

     第131条「道宗はただ一つの御詞をいつも聴聞申すが初めたる様に有難き由

     申され候。」(30-19)

     第192条「善知識の仰せなりとも成るまじなんど思うは大いなる浅ましき事な

     り。・・・」(30-27)

・円如・・・本願寺第九世の実如の次男( 蓮如上人の孫) 「御文」の編纂に尽力31歳で没

・「嗜む」・・・① 困窮する。行きづまって苦境に陥る。② 苦しさに耐えて一生懸命努め

        る。③ 強い愛着を持って心がける。 ④ かねてより心がけ用意する。

                                   (岩波古語辞典)

 「嗜む」という言葉は世間の中でもよく使われるが、この「聞書」では飽くまで仏法を嗜むということであるから、聞法を中心として勤行や念仏など仏法を身につけるための行を積極的に努め励むことである。仏語の「精進」という言葉と大体等しいと思われる。

〈大意〉

 赤尾の道宗が言われることには、まず日々の嗜みとしては朝、必ずお内仏にお参りして勤行することが大切である。次に月に一度は、御開山の御影が安置されている近くのお寺にお参りすることである。そして年に一度は、京都の本山にお参りして御開山のご苦労とご恩徳を憶念し報謝のまことを捧げるべきであると。

 毎朝の勤行はともかく、毎月御開山の御影が安置されているお寺にお参りすることはは大変だったようである。今日では御開山の御影のないお寺は無いが、当時はきわめて少なくて、御影のあるお寺まで二里(8キロ)も三里(9キロ)も歩かなくてはならなかったようである。道宗が参っていたのは伊波の瑞泉寺というお寺で、赤尾から20キロ以上離れていたが、彼は毎月聖人のご命日の28日には必ず参詣していたようである。冬になれば朝早く起きて、大雪の中を歩いて参るのであるから今日では考えられない。

さらに年に一度とはいえ、道宗は毎年欠かさず、越中から京都の本山まで約100里の道を歩いて参詣した。一番寒い御正忌の季節の旅は並大抵の苦労ではない。たまたま大雪のために本山にお参り出来なかった年は、ご命日の夜は48本の薪の木を敷いてその上に横になって一晩中過ごし、石を枕、雪を褥の聖人のご苦労を偲んだと伝えられている。まことに蓮如上人にしてこの弟子あり、感嘆するほかない。法敬といい、善従といい、上人の御教化はこのような篤信のお弟子によって支えられていたのである。


1、仏教と精進

 仏教学者の増谷文雄という方が書いた釈尊の伝記( 「この人を見よ」―ブツダ・ゴウタマの生涯)によると、釈尊が地上を去るその最後の時、弟子たちに残した言葉は、次のようなものであった。「では比丘たちよ、わたしは汝らに告げよう。この世のことはすべて壊法(壊れていくもの)である。放逸なることなくして精進するがよい。これがわたしの最後の言葉である」

 懈怠を戒めて精進せよと、これが釈尊の最後の言葉(遺言)であったということは、仏教という宗教の中で努力精進することがいかに大切かということをよく示している。

 また『無量寿経』では、法蔵菩薩が善知識である世自在王如来の徳を讃嘆する「讃仏偈」の中に、精進という言葉が三回使われている。

 1-10「布施・調意・戒・忍・精進・・・」(六波羅蜜の一つ)

 1-11「是の如く精進にして威神量り難からん」(「如是精進 威神難量」)

    1-11「仮令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔」

また『大経』下巻の「東方偈」の中にも「人信慧有ること難し 若し聞かば精進に求めよ」(1-45)とあり、さらにこの「東方偈」と「流通分」に、精進という言葉は無いけれども、「たとい大火が世界に充満していても、その中を過ぎて教法を聞け」という厳しい教えが出ている。( 1-45、1-76)

「精進」という漢字の意味について、まず「精」は精米という熟語があるように、玄米をよくついて白くした米という意味であり、それが転じて清い、純粋、混じりけがないという意味になる。純粋で混じりけがないとは、如来・真実ということであろう。

「進」は前進、進展、進歩であり、決して停滞・退転しないという意味である。( 論註に「進むを知りて退くを守る」とある) したがって精進とは、どこまでも妥協することなく真実を求めて歩んでいくということであろう。このような精進は自力とか他力を超えた仏教そのものの特色である。他力(本願)によって救われるのだから精進はいらないとか、精進は自力だという人があるがそれはまちがいである。

考えてみれば煩悩を抱えた人間が、迷妄を離れて悟りを開き仏陀になるということは大変なことで、「難中の難、この難に過ぎたる無し」(1-77)と言われるゆえんである。釈尊をモデルにして人間の自力によって悟りを開いて仏陀になろうとする聖道門の仏道が精進を強調するのは当然として、阿弥陀の本願の力によって信を得て浄土に生まれ、仏陀になる道を説く浄土門の仏道も、別の意味で精進なくしては決して成就しないことを知らなくてはならない。


2、他力の教えと精進 

他力の教えとは、先にも言うように阿弥陀仏の本願の働きに乗托して阿弥陀の浄土に往生することをもって救いとする仏教である。この教えでは人間の努力によって仏になることは、自分の顔を自分の目で見るようなもので不可能であると考える。仏になるための努力を自力といい、自力を尽して仏になろうとする道を「難行道」というが、この難という意味は実際には不可能という意味である。すでに3世紀ごろインドに出現した龍樹菩薩は、仏道に難行と易行の二つがあることを明らかにし、「十住毘婆沙論」において、阿弥陀仏の本願を憶念する「信方便の易行」( 信心が方法となって成り立つ易行)の道を説いた。その後天親・曇鸞を経て、7世紀の中国の道綽禅師にいたって、彼は仏教を「聖道門仏教」と「浄土門仏教」の二つに分けたのである。

「浄土門仏教」は他力(本願力)によって実現する仏道であるからわれらの努力は要らない、努力無用といわれているが、人間はどこまでも我が身をたのむ自力の心のかたまりであるから、努力(自力)無用と本当に分かることは決して容易なことではない。

自力の精進努力の限界に目覚めるためには、矛盾するようであるが、自力の限りを尽くさなければならない。信心とは、自力の限界に目覚めて本願(他力)をたのむ(まかせる)心であるから、本願の仏道(浄土門)は、信心を得るまでのあゆみと、信心を得た後のあゆみと二つに分かれざるを得ない。いくら他力(本願)の教えを聞いても、信心が生まれるまではわれらのあゆみは難行である。人間の努力無用の易行の仏道は、信心を得た後に開かれるのである。言い換えれば、仏の無我の智慧(本願他力)によって、我が身をたのむかたくなな自力の心を打ち砕かれることがないと、本願(他力)はものをいうことが出来ない。自力の心が執拗に他力を妨げているからである。簡単にまとめると、

〈自力の仏道〉 ―― 信の成立 ―― 〈他力の仏道〉 

    ∥                  ∥

   難行(道)               易行道  (注) 他力とは法の働き 

「本願の仏道」(他力の教え)でもそのことはよく分かっていて、阿弥陀の本願の中に自力の心を照らし破り、ひるがえすための本願がちゃんと用意されている。それが自力の行を認めた第19願である。19願は聖道門仏道の痕跡である。

したがって「他力の教え」の中に精進の大切さを説く言葉が散見するのは当然である。たとえば善導大師の「往生礼讃」の中に、次のような文がある。

「人生まれて精進ならざれば、喩えば樹の根無きが如し。華を採りて日中に置くに、能く幾の時か鮮なることを得る」

これで分かるように、精進は樹木の根のようなもので、根が腐れば枝葉は全部落ちてしまうのである。懈怠にして精進しないならば、樹の根が腐ったようなものであるというのである。

この言葉を夜晃先生も「讃嘆の詩」の中で引用しておられる。

「人生まれて精進せずんば、たとえば樹の根無きが如し」

無上菩提の大樹は、ただ精進によりて育つ。汝、精進せよ。永劫に精進せよ。・・・

純一無雑なる大信念仏の持続 よく寂静無為の楽(みやこ)に通ず。

これをおいて精進あること無し。 ( 60頁)

 この言葉で分かるように、他力の精進は信心念仏の相続にきわまるのである。

又、夜晃先生は、「薄氷を踏むがごとく戦々恐々として己れを省み、しかも大胆に念仏する」と言われた。他力の大道に立っても、自我の煩悩との戦いはなくならないのであって、決して油断することは出来ない。しかし念仏と共に煩悩と戦うのだから決して不安や恐れはない。

又、平成11年、NHKの宗教の時間に放送された故細川先生の話のテーマは「自力を尽くした果てに見えてくる愚かな者の救いの道」であった。

この自力を尽くすという言葉であるが、これは仏の本願を離れた行をするのでは毛頭無い。飽くまで本願の法をしっかりいただくための努力である。具体的には本願の教えを聞く、つまり聞法である。聞法によって愚かなわが身を知らされ、本願の心を知らせてもらうことが最大の目標である。その聞法がさらに具体化したのが念仏である。称名念仏の本質は聞名である。わたしが称えても仏の呼び声を聞くのである。この本願の仏道についてはなれないものが「五種正行」であり、「五念門」の教えである。

赤尾の道宗が何十キロの道を歩いて聖人の御影のあるお寺に参詣したり、毎年聖人の「御本寺」の報恩講に参るのも、広い意味では聞法である。仏法を嗜むとは、何よりも聞法精進である。