「後 生 の 一 大 事」
(第110条)
一、 前々住上人仰せられ候。「上下・老若によらず、後生は油断にて為損ずべき」の由仰せられ候。
上下とは身分の上下であろう。身分の高い者は世間の名利に執着し、現世の安楽を貪ることばかり考えて、中々世間を超えた真実の道を求めようとはしない。身分の低い者は生活に追われ、食べていくことが精一杯で、仏法は自分たちには関係がないヒマゴトくらいにしか考えられない。年老いた人は、耳も目も段々悪くなり、もの覚えも悪くなって、自信を失い、仏法を求める意欲が起こってこない。一方若者は、若さと健康を謳歌して世間の華やかな楽しみばかりを追い求め、自分自身の内面を問題にしようとはしない。油断とは特別なことではなく、このように自分の日常生活に埋没して、何のために生きているのか、生きる意味と目的を全く考えようとしないでウカウカと過ごしている生き様をいうのであろう。
1、「後生」とは何か
「真宗大辞典」によれば、「後生」とは「前生」「今生」に対する言葉で、「後に来たるべき生涯をいう」とある。「来世」「来生」「後世」ともいう。三世といえば、過去世・現世・来世であり、「後生」は來世である。
浄土教の救いは浄土へ往生することであるが、それは何時するのかと言えば、「今生」ではなく「後生」である。したがって、「後生の一大事」といわれ、「後生を願え」と言われるのである。このように「後生」と「往生」とは深いつながりがある。「後生」を一大事と思い、「後生」を願うのは「往生」するためである。
「後生」という言葉は『無量寿経』の下巻に出ている。どのように出ているかというと、「一世に勤苦すと雖も須臾の間なり、後に無量寿仏国に生まれ快楽無極なり」
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(「後生無量寿仏国」) (島地聖典・1-57)
この「後生」すなわち「後に生まれる」とは、何の後なのか、すぐ前に「一世に勤苦すと雖も」とあるから、「一世」つまりこの人生を終えた後という意味に取られてきたことであろう。しかし別の解釈も出来るのではないかと思う。
この「後生」の救いを盛んに強調された方は本願寺の蓮如上人である。『御文章』を見ると九回出ており、又『御一代記聞書』には七回出ている。蓮如上人は『御文章』では「南無阿弥陀仏」の南無について、「ようもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて後生たすけたまえと二心なく信じまいらする心を即ち南無とは申すなり」(29-31・3ノ2)と言われ、また『御一代記聞書』では、「一念一心に〝後生たすけたまえ〟と(弥陀を)たのめばやがて御助にあずかる」(30-6)といわれる。弥陀をたのむとは、一切のはからいを捨てて阿弥陀仏の本願にまかせることである。しかし「後生たすけたまえと弥陀をたのむ」という表現は、後生を助けて下さいとお願いすることのように誤解されやすい。「たのむ」とは「まかせる」という意味である。私が「たのむ」前に、如来の方から「われをたのめ」という呼びかけがあるのである。
ところで「後生」と言えば、普通一般には肉体の命が終わった後、つまり死後を指している。浄土に生まれるのは煩悩の肉体が消滅した時であり、現生に煩悩の身を抱えたままで浄土に往生することはあり得ないという考え方が浄土教の伝統であり、それは今日でも本願寺の特に「本派」ではしっかりと受け継がれている。なぜ死後往生にそんなにこだわるのかといえば、如来の世界=浄土と、衆生(人間)の世界=穢土との間には絶対の断絶があり、人間の方から浄土に到ることは全く不可能ということを教えるためだといわれる。
そうすると、浄土へ往生することが本願による救いであるとすれば、その救いは現在ではなく未来の救い、死後の救いということになる。現在の救いは何かといえば、「聞其名号」と南無阿弥陀仏のいわれをしっかり聞いて、信心をいただいて「正定聚」の位に住する身となることまでであるといわれる。「正定聚」とは、信心の利益として、必ず浄土に往生して仏になると定まった仲間のことである。死後はどうなるか、死後のことは誰にも分からないのに、死後の救済と聞いて人は本当に納得するのであろうか? この世の苦悩はひたすら耐えて、死後の安楽を夢見るというありかたが本当に宗教の救いといえるのだろうか?
往生するとは、自我の殻を破られて阿弥陀仏の世界に生まれ、仏の功徳(智慧と慈悲)をいただいて仏の功徳を生きる身になることであるが、命が終わらければそのような功徳をいただくことが出来ないという。しかし命が尽きたらば、必ずそのような功徳をいただくことが出来るという確かな約束はしてもらったというのが現生の救いである。
2、 親鸞聖人の往生観
「後生」の問題を考える手掛かりは親鸞聖人の往生観にある。聖人は「後生」については何も仰っておられないようである。ただ、内室の恵心尼公の手紙の中に、聖人が法然聖人のところへ尋ねて行かれることを、「後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて・・・」と出ているから、世間の常識にしたがって親鸞聖人も恵心尼公にはそうおっしゃったのかも知れない。
聖人が「後生」をどのように考えておられたかは、聖人の往生観をみればあきらかである。聖人の「往生観」は伝統の浄土教の往生観とは明らかに違っていた。聖人の書かれた書物の中で往生観がはっきりと出ているものは、『唯信鈔文意』とか『一念多念証文』などである。たとえば『唯信鈔文意』には次のように出ている。
「即得往生は信心をうればすなわち往生すという。〝すなわち往生す〟というは不退転に住するをいう。不退転に住すというは即ち正定聚の位に定まるなり」 (20―3~4)
また『一念多念証文』では、
「即得往生というは、・・・真実信心をうれば即ち無碍光仏の御心のうちに摂取して捨てたまわざるなり。・・・摂めとりたまう時即ち時日をも隔てず正定聚の位につき定まるを〝往生を得〟とはのたまえるなり」(19-2)
これで明らかなように、聖人の御領解では「即得往生」とは、「住不退転」であり「住正定聚位」であり、さらに「摂取不捨」である。この四つが全く等しいものであり、現生に成立する信心の内容として考えられている。すなわち往生はどこまでも信心について離れないもので、死後の往生という考え方はどこにも見出せない。
このように親鸞聖人は、現生に煩悩の身を抱えたままで他力の信心を得たならば、「往
生を得る」ことが出来ると考えておられたのである。これはすでに『大経』の本願成就文
に、信心の事態として「即得往生」とあるのだから聖人の独断ではない。念のために『無
量寿経』の本願成就の文を見ると、「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 願生彼
国 即得往生 住不退転」とある。大体往生は、仏の智慧によって我執の殻が破られて(そ
の目覚めが信心)、心が広い大きな如来の世界に出されることであるから本来肉体の消滅
とは関係ない心の転回なのである。
そのことを一層明瞭に述べているのが『愚禿鈔』である。それには次のように出ている。
「本願を信受するは前念命終なり。即得往生は後念即生なり」(14一8)
これは分けることの出来ない端的な「信の一念」をあえて「前念」と「後念」と二つに
分けて、「前念命終」=「信受本願」(信心を得ること)/「後念即生」=「即得往生」(浄
土に生まれること) とされたのである。
この「命終」の「命」とは肉体の命ではなく、わが身をたのむ我執の心(自力の心)のことである。迷いの元凶である自力の心が打ち砕かれた時が「得往生」である。信心の内容である本願をたのむ心は、わが身をたのむ自力の心が崩壊しない限り成立しない。それは丁度楠の木の葉っぱと同じである。今丁度、故先生のお墓のすぐ隣にある大きな楠の木の葉っぱが一斉に落ちている時で、楠の木はこの時期に古い葉がすっかり落ちて新しい葉が出てくる。古い葉っぱが落ちなければ新しい柔らかな葉っぱが現われることが出来ない。新しいいのちが誕生するためには、古いいのちは死ななければならないのである。
このように人間には二つの死がある。われらが恐れてやまないものは肉体の死であるが、それは生理的動物的死であって、なんらの自覚も必要としない。それに対してもう一つの死は、精神の臨終とも言うべきもので、星野元豊先生は「宗教的死」と言われる。これは根源的な目覚め、心の転回を伴うものである。その「宗教的死」に即して「宗教的生」(往生)が成り立つのである。
ただ、往生については、「往生を得る」と共に、「往生をとげる」という表現がある。
たとえば『歎異抄』の第一章には、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をと
ぐるなり」とある。この「往生をとげる」という言葉は、煩悩が滅して仏になることであ
る。「往生即成仏」とはこれを言ったのである。「往生を得る」ところでは「往生即成仏」
とは言えない。
今日でも一般に、仏法者の死を「往生」ということは常識になっており、私たちも使う
ので、大きな意味ではそれでよいのかも知れない。聖人の晩年のお手紙の中では次のよ
うに書かれている。
「この身は今は歳きはまりて候へば、定めてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にて
必ず々々待ちまゐらせ候ふべし」(「末灯鈔」21―10)
ここではお手紙であるから、相手の気持ちに同じてこのように仰ったのであろう。しかし人間の救済の道理を明らかにする教義に立てば、先ほど紹介した通りである。
3、「後生」の真意を考える
そこで改めて「後生」の真意を問題にしてみたい。「後生」の「後」とは何の後を言っているのであろうか? 先に紹介したように、この「後」は今生の後、つまり肉体の命が終わった後というように受け取られてきたが、別の考え方は出来ないだろうか。
仏のさとりの智慧に照らされると、私たちは自我の煩悩のために、深く自分の立場や利害にとらわれて、そこから一歩も出ることが出来ないと分かる。自我・我執の殻に覆われた私の「生」(生まれて生きるいのちのあり方)は、虚偽であり、迷妄というしかない。私は本当には無いものを有ると思い、本当に有るものは無いと思い、経験するすべての現実を自我の色メガネによって見て、虚構の世界を作って生きているのである。したがってたとえ100年生きても本当に生きたことにならないのは当然なのである。私たちの感ずる生きることのむなしさはここに根拠があるのである。
私は「後生」とは、この迷いの「生」の後の「生」という意味で受け取ったらどうかと思っている。迷いの生は、仏の智慧によって照破され翻されたのである。本願と出遇って信心の世界の出されたものの「生」は、煩悩はあってももはや迷いの「生」ではない。迷いの「生」を超えた「生」である。如来・真実に丸ごと生かされた「生」である。それを「願生」というのであろう。
また、仏の教えを聞いていくと、その迷妄の「生」はただそれだけでポツンとあるのではなく、如来・真実の「生」の中にあるというか、真実のはたらきの中に摂取されているのである。真実の「生」と無関係に虚偽の「生」だけがあるということは道理に反している。真実無くして虚偽は成り立たない。真実が虚偽を成り立たせているのである。そして真実は虚偽を超えているままに虚偽を包んでいる。虚偽(迷妄)の「生」はすでに真実の「生」によって包まれ、真実「生」の中にあったのである。真実「生」の呼びかけ、はたらきかけの中にあったのである。
もしそのように考えることが出来るとすれば、「後生」とは、われらの迷妄・虚偽の「生」の背後にあって、迷妄の「生」に限りなく呼びかけはたらきかけている如来・真実の「生」のことではないだろうか? 「後生」とは、背後の「生」である。浄土とはそのような如来・真実の「生」のことである。「後生」はわれらの生死を超えた「生」である。したがって、死後に初めて出遇うものではなくて、生きている時もわれらの迷妄の「生」を黙々と支え、たもち、生かしているものである。しかしわれらに信心が成立しない限り、その如来の真実の「生」に出遇うことは出来ない。
このように、「後生」がそのような「生」であるならば、「後生」は死んだ後ではなく現生に信心の内容として成り立つ「生」である。 この「生」は先にもいうように、「生死」を超えた「生」であるから、目には見えないけれど、死後の世界ととってもよいのである。ただ死後の世界は私たちには分からない。しかし分からないから無いと決めつけることも出来ない。
もし現生にこの「後生」をいただいたものは、苦悩に満ちた現実人生(迷妄の生)をイキイキと生き切ることが出来、縁が尽きれば感謝して死に切れる。死を目前にしても、自分の人生に対して後悔や恨み、被害者意識を持ったままであれば死にきれない。「後生」とは死に切れるいのちをいただくことである。死後の魂の平安など考える必要がないまでに、生きている今、出遇うべきものに出遇ったのである。